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【オリジナリティとは?】伝聞で語るな。経験と体験で語れ。

エッセイ

他人の言葉をそのまま使うな。自分の中で昇華させて語れ。

……ってなことを私は常々思っています。自戒を込めて。

良い言葉」って、聞いたら使いたくなるじゃないですか。その気持ちはよくわかります。ですが、ちょっと待ってください。他人の言葉はいわば「原材料」です。自分なりに調理してしかるべき形にできないとしたら、それは他人にお出しできるようなものではないという事です。それはコミュニケーションでもしかり、小説のような表現媒体でもしかり。

いわば格言のような「良い言葉」ほど、取り扱いには気を付けなければなりません。これらはいわば青魚(のように思えてしまうもの)です。すぐ悪くなります。だから急いで料理しなければならない——と思ってしまいます。確かに言葉によって刺激を受けたなら、即座になんらか自分のデータベースを更新するべきだし、メモリには常時乗せておくべきです。ですが、それを出力するのは少し待って欲しいのです。適切な調理方法を学ぶべきだし、適切に調理してから提供するべきだからです。

オリジナリティとは?

私も「格言」やら「伝承の一節」やらに影響を受けて作品を創ることがあります。でもこれはけっこう危険なことで、ともすれば自分の中で「わかった気になっている」だけのものである可能性があります。この状態で作品を構築すると、「創る」ではなく「作る」になってしまう危険すらあります。「作る」から「創る」にするために不可欠なものが「オリジナリティ」ということになります。

では、その「オリジナリティ」とは何か?

これは一種命題のように仰々しく語られるものですが、「オリジナリティ」とはつまり「独自性」です。世界で唯一無二の物を生み出すのが「独自性オリジナリティ」の仕事です。じゃぁ、それは何処から来るのか。答えは、「自分自身」です。正確には「自分自身の経験と体験に昇華したものの集まり」とでも言うべきでしょう。世界を経験値に変えたものが自分を方向付ける——文学的に言うならそうでしょう。

人間はスタンドアローンではいられない

人間というものの性質は、決してスタンドアローンではありません——例外なくです。

世界に影響を受けて、一つの個性として確立している、それが人間です。「世界」と一言で言っても、世界というのは無限の面を持った球体のようなものですから、どの面からの影響を受けるか、どの面が見えているか、どういった形だと認識しているか——そういったものは人それぞれです。千差万別です。だから、同じ言葉を聞いても、同じ作品を読んでも、同じ映画を見ても、同じ人物に出会っても、人は得てして同じ感想を抱かないのです。実はそこに「オリジナリティ」は潜んでいます。

自分自身の体験や経験というのは、自分以外の誰かのものとは完全一致しません。同じ映画を見てまるきり同じ感想を抱いたとしたら、それはおかしいですよね。90%一致することはあっても、残り10%まで一致したら、そりゃもう同一個体ですよ。

ここに現れる他人との差異(意識しなくてもちゃんとある)が「独自性=オリジナリティ」。だけど、「良い言葉」というのは、その表面を上滑りして、何の加工もされずにそのまま使われてしまう危険性があると私は思っています。だから「言葉の一人歩き」のようなものが発生するのだと思うわけですね。

こと、私ら小説家(志望)というものにとっては、「オリジナリティ」は生命線です。であるからこそ、より多くの創造活動をしない人々よりも慎重に「言葉」を取り扱う必要があります。「いいな」と感じた言葉を一度咀嚼し、その言葉を「自分が表現するならこうだ」と納得いくところまで高めた結果として、オリジナルなものが生まれる。「オリジナリティ」について深く考える必要は全くないのですが、「オリジナルである」と言いたいのならば、その原点を知り、それを自分の体験や経験に昇華してから出力すればいいのだと思うのです。

真のオリジナル

「世の中もはやオリジナルなんてものはない」という論調もあります。が、それは暴論です。先述の通り、人はスタンドアローンではない。つまり、何かに影響を受けてない人間はいない。プログラム的にはこれを「継承エクステンド」するとか言ったりしますが、まさにこれ。拡張すら許されないのであれば、世の中オリジナルのプログラムはないし、人類は延々と四角い車輪を発明し続けることになるでしょう。

先人の生み出したものを昇華し、「自分自身の言葉」を生み出す。それは「独自性オリジナリティ」というフィルタを通した立派な「オリジナル」であると私は考えます。

そもそもね、それを言うなら、世界は「無」をこそ「継承」して作られているわけだから、「オリジナル=無」という面白いことになっちゃいます。最上位にあるクラスが「無」なのですからね。オリジナルを辿るとNothingに辿り着くというわけですよ。色即是空・空即是色の世界ですね。仏教は良いこと言うなぁ。

なので「自分自身の経験や体験、思考を通じて出力されたもの」だと自分が確信を持って言えるものは、総て「オリジナル」と言っても良い。もちろん、盗作は別問題ですよ? そこまで議論は広げていませんからね?

何度でも言いますが、大切なのは「自分」という「オリジナリティ」のフィルタを通してしっかり調理することです。小説だろうがなんだろうが、とにかく自分の言葉で語れと。自分の言葉で語れないうちは、まだその格言や言葉のレベルに到達できていない……ということです。

オリジナリティって何だろうって悩む前に、「書きたいもの」はあるのかを問いかけてみてください。「書きたいもの」があるのなら、「それを自分の言葉で(熱く)語れるのか」だけを考える。四六時中。その結果、「YES」だったら、それを表現するときが来たということでしょう。小説でも何でも書いて、「カクヨム」「小説家になろう」……まぁ、カクヨム推奨ですが、とりあえずどこでもいいので発表してみましょう。評価は読者がしてくれます。変なことを憂う必要はありません。まぁ、できれば本サイトであれこれしている分析も覗いてみて欲しいところですが。

さて、とりとめもなくなってきたところで。

それでは良き執筆ライフを!

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