「語彙力」って何?

エッセイ

先ずは「語彙力」の定義を調べてみる

goo国語辞典によれば

その人がもっている単語の知識と、それを使いこなす能力。「語彙力が高い」

……だそうです。まぁ、全くその通りですよね。ですがここに問題が。「それを使いこなす能力」とあります。「使いこなす、とは何でしょう?

そんなことを考えつつ、そもそも「小説に語彙力って必要なのか?」という命題について考えてみます。

単語を使いこなす、とは?

語彙力=単語を使いこなす能力。じゃぁ、単語を使いこなす能力があるということは、語彙力がある。禅問答ですね、これじゃ。

じゃあ、「単語を使いこなす」ってのはどういう意味なのかってことを考えます。単語だけに限定すると話が面倒になるので、語彙の集合体でもある文章にまで話を拡大しましょうか。「文章を使いこなす」と言い換えてもいいかな。

「文章が使いこなせている」と一人称で言ってしまってる人はカンチガイさんです。「使いこなせているかどうか」を判断するのは二人称(あなたの目の前にいる人)か三人称(彼/彼女ら)なわけです。つまり「使いこなせている」かどうかの判断は、総て「受け手」に依存するんですね。さもなくばただの自己満足です。

つまりです。彼/彼女らが、その文章あるいは文脈を「十分に理解できたと感じた」時に初めて「語彙力がある」と言ってもらえるのです。だからあなたがいくら「自分は語彙力がある」と言ったって、あるいは作中で誇示してみたところで(やりがちですよね)、彼/彼女らが「十分に理解できる文章だ」と思わない限り、それは「語彙力がある」とは言えないんです。

語彙力は相手に依存する?

だから、誰に向けて書くかが重要

前述の通り、語彙力は「相手(読み手・聞き手)」に依存するんですね。だから、「アラサー、アラフォーに向けて書くのか」「社畜男性に向けて書くのか」「恋多き女性に向けて書くのか」「大学生?」「中高生?」などなど、「誰に向けて書くか」が非常に重要なように思えます。

いわゆる文学作品に造詣の深い人にはオオウケする作品が書けたって、それが中学生に通じるとはとても思えません。でも、内容が中学生向けで、使用語彙が文学畑の人向け……誰がどう見てもアンマッチです。これ、書いた人は「語彙力不足」です。中学生向けの語彙がないんですから。いや、あるにしても「語彙を使いこなせていない」ですよね。この時点で「語彙力」の定義からはずれます。語彙自体はあるが、使用可能語彙があまりにも足りてない場合にこれが起きます。だから、「言葉を知ってるから語彙力がある」と言う考え方はまったくもって間違えているということです。

誰に向けて書くのか、その話はどこの層向けなのか、この辺をしっかり考えておかなければ、せっかくの語彙も「使いこなせない」という判断を下されることになります。理不尽に思えるかもしれませんが、これが現実です。仮に頭の中に辞書一冊丸々入っていたとしても、その人が分かり易い話を書ける/話せる、という根拠にはなりません。

語彙力とは空気を読む力の発露だ

つまりです。その場に合わせた単語のチョイスができる人。その場に合った文章を構築できる人。これらの人——つまり空気を読める人——のことを「語彙力のある人」と呼ぶわけです。

小説を書く人にとっては、「どんな人がどんなシチュエーション、心情で読むのか」を考えられるか否かが重要になります。アクセスしてくれた人、手に取ってくれた人がどんな空気をまとってそれを読むのかを想像できるかどうかってことです。これができれば、あとは適切な語彙を使いこなせばよいわけですから、「語彙力のある」人になるのはそう難しくないでしょう。

吉田戦車氏に学ぶ

吉田戦車さんの「まんが親」というコミックの中で、「言葉を煮る」という表現があって、これがしっくりきました。相手に合わせて語彙を「煮る」。柔らかく食べやすく消化しやすくする、という意味なんですが、これが本当にいい表現。ただ煮れば良い話ではなく、どこまで煮るかも見極めなければならない。やっぱりそこは「空気を読む」力なんだろうなと。

私自身、英文学科卒でありますので、ともすれば難解な、いわば衒学的な語彙を用いがちです。というか、使いたくなります。が、ぐっと我慢。たいてい推敲時には消えてなくなります、その手の「高度な語彙」は。だって、英文学科卒の人に向けて作品を書いてるわけじゃないし。

仮のターゲットは、中高生だ

今現在中高生な人には申し訳ない話なんだけど、ぶっちゃけ「大人」ってやつは、基本的に中高生の語彙力を侮っているのね。この場合の語彙力ってのは「受け入れ可能語彙(=受容語彙)」のことなんですけども。

語彙力:中高生<大人?

中学生よりは確かに高校生の方が語彙力が豊富です。それは事実と思うのですが、たとえば高校二年生、三年生。専門用語関係はともかくとして、大人とそんなに語彙力が違いますかね……? ものすごい読書家の大人や高校生を考えちゃダメです、そういう人は世間一般的には例外なので。小説書きは少なくない割合で読書家ですから、例外にあたります。一般読者と違います。そこ間違えないように。

あくまで「普通のレベルの範囲におさまる高校(=大多数の高校生)」の語彙と、大多数の大人。こと小説に関してはそんなに語彙力って違わないと思うんです。発話語彙ではなくて、受容語彙の方ですけどね。(←ここの発話~の文章は、語彙力がないと言えます)

でも、じゃぁ、それだったら「大人」に向けた作品を「高校生」に読ませたっていいじゃないか? という疑問が湧きますよね。

だめです。

だめなんです。

なぜなら「表現する側の人間」にはバイアスがあるからです。少しでもよく見せたい、ちょっとでも賢く思われたい。そういう願望が、人の中には少なからずあるからです。これはつまり、「大人向けの語彙」で書くと、「大人向け以上の語彙(文章)」を作ってしまうという事に他なりません。書き手も大人なわけですから、自分の身の丈以上のことをしようとしてしまう——つまり分不相応というものです。

だからこそ、大人の侮る中高生……つまり受容語彙が少ないと思っているイマジナリーフレンズのような何かに向けて、作品を書く必要があるのです。「この語彙わかりますか?」「文脈、過不足なく追えてますか?」そんな問いかけをしつつ、そのイマジナリーフレンズのまとう空気を逐一読み解きながら語彙を並べる作業がうまくできて、初めて「××さんの〇〇という作品には語彙力がある」と評される可能性が出てくるわけです。どうあれ、書く人に依存するわけじゃないんです。

語彙力は「作品につくパラメータ」である

作家を名乗る、作家になりたいと口にする人の多くは、私を含めて、十分な数の単語や文章能力を持っています。確かにまだまだ駆け出しの人もいますし、ぶっちゃけ稚拙な人もいます。ですが、それでも書き続ける限り必ず伸びる人がそのほとんどすべてだと思っています。文章は確実にうまくなりますから。書いていれば。あるいは、注意しながら読んでいれば。

という前提に於いて。

「語彙力のある人」を目指したいのなら、辞書を読むのではなく、自分が使っている単語(語彙)のチェックから入りましょう。感覚的には「ここまで煮ちゃって大丈夫かな」ってくらい煮てしまって良いと思います。小説が読む人を選ぶのではなく、読む人が小説を選ぶのです。同じようなものが二つ並んでいたら、素直に読み易いものを択びますよね。

 たとえば、「ソードアートオンライン」は、あの文章だから成功した。「化物語」もあの文章だから成功した。仮に全く同じストーリーであったとしても、文豪である森鴎外の文書体で書いてあったら誰も読まなかったはずです。安部公房の文章だったらまして出版すらされていないでしょう。京極夏彦は敢えて「固めに煮た」ことで成功した。でも煮ているんです。それは一作品でも読めば一目瞭然です。ちなみに「魍魎の匣」が一番好きです。あんな読み難い文章をあんなに読み易く書けるのは京極先生だけじゃないでしょうか。

ともかく、語彙力というのは「作者」にくっつくものじゃない。作品への読者の評価によって、作品につくものです。自分自身で評価するものではないのです。

  • その空気に相応しいところまで語彙を煮れるか
  • その空気というものがどんなものなのかしっかり考えられるか。

この二点が「語彙力」の源泉なのです。

結論として

つまり、語彙力が必要か否かという問題は、そもそものスタートラインから定義が未熟なのです。

語彙力は作品につく。作者じゃない。作者は作品に相応しくなるように、語彙を煮る。その見極めの巧拙こそが語彙力の多寡になるわけです。語彙力を高めるために必要なことは、空気を読む事です。

作者の持っている単語の数なんて、読者にはどーでもいーことであって、読者は「自分にとって心地いいレベルの語彙」を求めているだけです。その「心地いい」帯域を把握できて初めて、「その作品には語彙力がある」と言われる可能性が生まれるのです。

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