万物は流転する、小説もまた変わる

エッセイ

小説の概念は遠からず変わる

私はWEB小説のプラットフォーム」は長くて3年以内に激変すると思っている。それこそ衝撃的なことが起きるんじゃないかなって。たとえばAIのアカウントが100万人分「小説家になろう」に登録してきたっておかしくはないわけだ。

「普通」が変化する

科学技術の進化は加速している。決して絵空事とは言えない。おそらくITの進歩に人間側の受け入れが追いつかなくなるし、シンギュラリティを迎えるそれ以前に、科学技術は人間が人間だけで扱える範疇を超える。50年とか100年ではなく、それは今後数年で起きる話だと思っている。AIは物理的にもうとっくに生まれているし、学習し始めているのだ。基礎研究が確立した瞬間に、変化は起きる。iPS細胞がそうだったように、階段を上るように人類は進化する。巨大な進化も小さな進化も同じで、ある日突然日常になる

小説プラットフォームに対するアナクロニズムは排斥されるべき

小説、絵、音楽、映像、それらのマッチングが自動的に行われるのが「普通」になるかもしれない。 それこそ、クリエイターのベーシックインカムとして 「収入」が当たり前に入るようになるかもしれない。夢を見すぎと言われるかもしれないけども、夢を見て、夢を発信する、そして実行する――そういう人がいなければいつまでも「時代遅れ」を取り戻せない。そう、「小説」というものに対する多くの人々の「概念(という名の思い込み。べき論)」は、すでにアナクロニズムに浸りきってると言っても良い。そうであることこそが「正しい」と思っている人は少なくはない。

だけど、たとえばそれこそ誰もが認めるWEB小説の最大手であるところの「小説家になろう」がトランスフォームする可能性もあるわけだ。彼らがちょっと風向きを変えれば、本当に大変なことが起きる。バタフライエフェクトとか言って笑ってはいられないだろう。クリエイティヴなものに対する観念や概念など、変える気のある人が力と共に動けば簡単に変わるものだ。

小説プラットフォームは「当たり前に変わっていく」

広告収入モデルだって、今や当たり前に導入されているわけだが(それこそ「小説家になろう」はほぼそれだけで成り立っている)、導入時には誰もが懐疑的だったはずだ。まぁ、「カクヨム」でロイヤルティプログラムを導入した途端に巻き起こった侃々諤々たるなんやかんやには、正直驚いた。私としては「いまさら!?」な議論である。その一件をとってみても、人間は「とりあえず抵抗するんだな」ということがわかった。変化に抵抗する人がいてこそ健全ではあるが、その文化が進化することへの抵抗が勝ったことはないだろう。彼らのかざす「当然・常識」という言葉は、数年のうちに陳腐化するのは目に見えている。小説家界隈だけが変化から逃れられると思うのは、あまりにロートルな発想だろう。

WEB小説のプラットフォームたちは、ユーザの声を聞いた結果、そしてユーザのニーズに「一番に答えるために」、当たり前に変わっていく。彼らが変わるのは「お金のため」であり、「お金が動く」のはユーザに認めてもらわなければならないからだ。敢えてユーザがお金を動かさない=ニーズではないことに動く企業はないし、よしんばあったとしても淘汰されるだけだ。結局生き残るのは「当たり前に変わっていける」プラットフォームだけだし、我々サービス利用者はその流れに抗うことは出来ない。アナクロニズムはニッチなものだという簡単な事実を受け入れなければならない。さもなくば「アナクロ」になどなっていないのだから。

新しいプラットフォーム

突然ひょいと「ノベルアップ+」が出てきて(おもに公式看板娘ノベラのTwitterアカウントのおかげで)賑わっているように、今後も「新しいプラットフォーム」が出てくるのは間違いない。当世風ではない、一種珍妙に見えるようなプラットフォームが出てくるかもしれないし、個人的には出てきて欲しい。

たとえばこのブログでも取り上げた「BOOKPORT」というサービスが動き始めている。私はこのBOOKPORTというサービスには本当に期待していて、事実クラウドファンディングでも僅かながら支援させていただいた。面白そうだなと思ったからなのだけども、今の所ちゃんと面白そうだ。それをより面白くするためにも、まずはぜひ登録を。何らかのサービスを提供する際、そのスタートアップ時は特に「数は力」なのだ。

人は人のいる所に集まる

バンドワゴン効果によるもの

人は人のいる所に集まる。人が多くなればなるほど加速度的に集まる。これは「バンドワゴン効果」という一種の認知バイアスなのだが、とにかくこれは事実だ。「小説家になろう」が未だにWEB小説の一強であることは、この証明でもある。「とりあえずここには登録しておこう」と思わせるために必要なのは「人の数」なのである。そして「人」が集まれば「お金」が動く。Google AdSenseで言えば、ばらつきはかなり大きいものの、だいたい100~300PVくらいで1円入る。「小説家になろう」が一日何円広告収入を得ているか。なんとなく計算したら具合が悪くなったので止めた。とりあえず「金」が集まる。その母数が大きくなればなるほど、ニーズには答えやすくなるのだが、「一強体制」では「冒険」をする必要がない。必要がないから、維持管理コストに回していける。結果として「常識」が変わらない。

10年もあればサービスは変わる。あるいは順位が入れ替わる

だとするとその一強体制である以上「常識」は「陳腐化しない」のでは? と思われるかもしれない。だが、たとえば「ニコニコ動画」を想像して欲しい。Vocaloidの出現とともに大旋風を巻き起こしたサービスだが、今や正直風前の灯火である。Youtubeなんて相手にならなかった時代がある。ところが、今や時代はYoutuberの出現もあって、あきらかにYoutubeが優勢である。たったの十年弱で趨勢が変わったのだ。「小説家になろう」がダントツ最強でいられるのもあとほんの数年間である可能性も低くはない。何が起きるかわからないからだ。永遠に「同じ形で」続くサービスなんてないのだ。

一見すると「(その時代には)斬新なサービス」から新たな価値や概念が生まれ、創作の形そのものが変わるかもしれない。その可能性は十分にあるし、変わらないものの行き着く先は滅びなのだから、変わってもらわないと困る。

たとえばアニメがセルからCGに変わったように。プラモデルがはめ込みおもちゃからマスターグレードに進化したように。携帯ゲーム機が白黒から高解像度カラーに置き換わったように。ネットが有線から無線の時代に移ってきているように。一部の人の思いや行動が、時代を引っ張ってきた。常識と化した概念ありきでサービスができるわけじゃない。当時の非常識から新しいサービスが生まれ、それがやがて常識に変わる。そうやって物やサービスは進化してきたのは周知の通り。

なぜ「小説」界隈は進化や変化を嫌うのか

小説だけは旧態依然とした形のまま残ると思ったら大間違いだし、小説というオーソリティを過信してるとしか思えないし、およそ創作者にあるまじき想像力の無さだとしか言えない。小説だって変わってきている。日本国内に外国語対応WEB小説プラットフォームが出現したり、翻訳能力の向上などで。だから日本の小説だって国際化していくはずだ。

日本語小説の国際化

「翻訳文学」のニーズ

翻訳能力の向上というのは、単にGoogleすごいというだけの話ではなくて(事実とんでもない速さで精度を増してはいるのだが)、人間による翻訳も変わってきているっていうことである。本来、文化には背景(Schema/スキーマ)が付いてくる。歴史、地理、宗教、伝統、文化圏的常識……そういったもの。そういうものがInternetを通じて簡単に理解し得る環境になった。今やネットで手に入れられない情報はないのだ。

バイアスはかかるし、検索精度も100%ではないが、そんなことは何百年も前から同じなのだ。少なくとも「黄金の国ジパング」の頃から。ネットで手に入れる情報だけでは、と言っている人達は、何百年間も同じことを繰り返し述べているだけの、いわば「四角い車輪」の発明者に過ぎない。

日本語を学ぶ外国人も爆発的に増えたし、学べる場も加速度的に増えている。英語もまた然り。質も上がっている。文化的背景が翻訳にもたらす難しさは確実に減ってきている。となれば、小説もまたアニメと変わらぬ同じエンタメ。日本語の小説が海外に出るのにも敷居が下がったと考えられる。第一に、若い世代が当たり前に英語に触れている。うちの長男(8歳)も当たり前に英語を聞き取るし、一応英語学を専攻していた私から見ても、発音もうまい。彼らはデジタルネイティヴであると同時に、セカンドランゲージとしてナチュラルに英語を扱える可能性のある世代だ。

「小説家になろう」が国際化に舵を切る?(たとえばの話)

たとえば「小説家になろう」が国際化に打って出たらどうなるか? 彼らの中でちゃんと言語に取り組んだ者たちが、国際的勝ち組になる可能性すらある。「え、この本日本語しか無いの? オワコンだね」と言われる未来もあるかもしれないし、あるいは翻訳AIが進化して、文体などをそれぞれの国の著名な小説家に似せた翻訳をするようになるかもしれない。たとえば、「シェイクスピアの作品を村上春樹風に訳して」などとオーダーするだけでよくなるかもしれない。となれば、「日本語で美しい文章」というよりも「誤訳を防ぎやすい文章」がもてはやされるようになる可能性すらある。そうなった時に対応できるか、否か。するのか、しないのか。そこの未来予想や対応柔軟性こそが大事なのではないだろうか。

というわけだから、変化は確実に起こる

英語(≒国際言語)というもののニーズ

実際、日本のMANGAが好きで、日本語で漫画を読む外国人だって少なくない。なら、そこから一歩先に出たら「漫画原作の小説を原書(日本語)で読もう」という人だって現れる。Google翻訳に助けてもらいながら読む人だって現れる。実際にたくさんいる。日本人だってアメコミを原語(英語)で読む人がいる。私のように英文学が好きな人だっているし、なんならスティーヴン・ホーキング博士の本は本屋にある分については原書(英語)で読んだ。

そういうのを前提にしたWEB小説プラットフォームに「カクヨム」や「小説家になろう」が進化したっておかしくない。あるいは両者が手を結んだって不思議なことではない。「スクウェア」と「エニックス」が昔は別の会社だったって知ってる? 知ってる人は両社が合併するだなんて思ったことはなかったよね? そういう話である。遅くても数年という単位で、日本は、英語が当たり前に使われる社会になる。さもなくば文化的にも政治的にも途上国になるだろう。

せめてTOEIC750点が「常識」になるところまでは来てほしいと思う。TOEICが指標として適切なのかは置いておくとしても、であるならばたかだかTOEICで750くらいはとって欲しいものである。指標云々の話は取ってから言え。

英語以外でも良い(中国語だって良いだろう)から、何か一つくらいは「常識として」外国語を修めて欲しいと思うのだ。というよりも、今の子どもたちがおとなになる頃には「常識」になる。老害化しないためにも、外国語は(英語に限らず)勉強するべきである。

創作活動の統合プラットフォーム

小説も絵も映像も音楽も、最終的には「エンターテイメント」という枠組みになるわけだが、そういうものが相関関係を持つコンテンツというのが当たり前になったっておかしくはない。「小説は書けないけど発想がすごい人」+「絵が上手いけど物語は考えられない人」+「映像なら任せて欲しいけどアイディアがいまいちな人」が「当たり前」にマッチングされたら何が起こるだろう? 「小説書いたぞ、UPしたぞ、どんな絵が付くかな」というのが「当たり前」になったらどうだろう。今で言うところのファンアートを土壌とした何か。

たとえばそういうものが提供できて、何かをきっかけにブレイクしたら? 十年前の、初音ミクが登場した時の「ニコニコ動画」のように。確実にパラダイムはシフトする。その可能性を否定できる人はいないだろう。

万物は流転する(pantha rhei/パンタ・レイ)、のである。

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