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流行を追わないことを嗤われる道理はない

エッセイ

さてさて、テンプレだのなんだのと何年騒いでんだろうというくらいにやかましい小説界隈ですが。流行を追う、求められるものを書く。それもいいでしょう。というか、読まれたいだけならそれが限りなく正解。みんな(という名の多数派)が読みたいものを提供すれば、そりゃ比率的に多くの人に読まれる……なんてのは算数の世界ですね。サルでもわかるかもしれない。

しかし、「書きたいものを書く」というホントの意味でのクリエイタータイプも存在するわけですよ、世の中には。他人が基準じゃない、自分が基準の人。というより、クリエイターが外部(他人)におもねるようになったらそりゃもう創造者ではなく、製造者なんですよ。製造者が悪いとは言いませんが、製造者側に立つ人は(「創造者」側から見ると)独善的な意見を持ちがち、振りかざしがち。というか、私が思うに、「製造者側」の人には「創造者側」の思いや理想が理解できないんじゃないかと。良し悪しじゃなくてね。

クリエイター(創造者)は「表現者」でもあるわけです。その源泉となるものは自らの内にあるもの。他人がどうのじゃないんですね。だけど、「表現者」でもある以上、「誰か」に見て、感じてもらわなければ作品が完成しない。誰かに受け取ってもらわないと、作品は完成しないんですよ。

でもね、ここで「製造者」の立場の人たちは嗤うわけです。

「読まれたいと言いつつ、流行に乗らないとかwww」みたいに。

これがどれだけ愚かな主張なのか、製造者側の人は一生理解できないんだろうなあ、などと思うわけです。

ものを作る人達は、まず自分が「創造者」なのか「製造者」なのかを見極めるのが良いと思います。周囲に迎合するのが当たり前、あるいは、それも選択肢として計上できるひとは「製造者」です。「流行に乗りもせずに読まれたいとか意味がわからない」なんて人も「製造者」です。そして「製造者」は多数派だと私は思っています。とかく声が大きいもん。

「創造者」サイドの人たちは、「製造者」サイドが「タダシイこと」「アタリマエのこと」として振りかざしてくる言葉に傷ついたり悩んだりしますよね。でもね、「創造者」型の人は少数派、言い換えれば貴重なんです。誰に何を言われようと、作りたいものを作り続けて欲しいと思います。立ち位置の違う人が発してくる声に、悩まされないで欲しいのです。

創造者タイプの人が活動しても、作り続けても「結果」になんてつながらないと思う、そのほとんど全員が。残念なことに、「売れるものを作る人がタダシイ」という原理原則があるからです。しかし、私はそれを押しても、創造者が創造者であり続ける意味はとても大きいと思うのです。

そして創造者な人たちは「外部のノイズ」に悩まされていられるほど暇じゃないはず。外の声じゃなくて、内の声を聴いてほしいなぁ。専念してほしいなぁ。などと思うのであります。

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