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ワクワクを維持するために必要なこと

エッセイ

小説に限らずですが「ワクワク感」というのはどんな場合にもエネルギーになります。使い方を工夫すればそれは大きな目標にもなりますし、指標にもなります。

ワクワク感はエッセンス

忘れてはいけないもの

「ワクワク感」というものは、クリエイティブな活動をする上では欠かせない活力になります。自分がワクワクできないものが、他人をワクワクさせるはずがないからです。いわゆるひとつの芸術家肌な人はわかりませんが、多くのクリエイターは「見る人、読む人をワクワクさせるために」活動しているのだと思っています。であるならまず、自分自身がワクワクしてなければ、お話にならないというわけです。

創るのに苦しむ事と、ワクワクすることは両立します。なので、「ワクワクするため(→他人をワクワクさせるため)には創作に苦労していてはいけないんだ!?」とかそういう話ではないのです。苦労? どうぞ、してください。血を吐き、頭を掻きむしるほど悩んだって良い(いや、良くないけど)。でもどれほど苦悩しようが忘れちゃいけないのが、「創ってるものに対するワクワク感」です。

それは信念

以下、小説に話を絞りますが、「この物語は面白い、面白くするんだ」「一人でも多くの人に読んでもらって何か感じてもらうんだ」という執念のような信念。それがない物語を供出するのは、私は失礼無礼であると思っています。巧拙の問題ではないのです。小説を書く上で必要なのは、執念や信念の類です。

単に小説を書くのがうまくなりたかったら、たくさん読んでたくさん書いて、いろんな人から話を聞いてフィードバックを繰り返せばいいのです。売れる作品を研究すればいい。私のこのブログのようにデータを取って分析したら、見えなかったものが見えてきますよね。だから、小説書く技術は時間と根性で手に入れられます。売れるかどうかも多分。が、このへんは私は売れるに至ってないのでわかりません。ですが、少なくとも私と同じレベルになるのは難しくないはずです。ここから先は大変だと思いますけどね。巧拙の問題ではないと書きましたが、もちろん常に進歩し続ける努力は怠るわけにはいきませんね。

話を戻して。

自分の作品でワクワクしたことがないなんて人は(少なくともWeb界隈に発表してる人には)いないと思うんですよ。まして複数作品出してる人には。口ではどう言ってるかは個々人のスタンスではありますが、十中八九その通りだと思っています。さもなくばメンタルが強力すぎます(笑)  もちろん、中には「面白さ」に関して半信半疑な人はいるでしょう。「これ、自分以外が読んでも面白いのか?」とかわからなくなってしまう人も少なくないはず。そんな人は先ずこちらの記事を読んでおいて欲しいのですが。

ワクワク感に必要なもの

ワクワク感←好奇心←未知なもの

では、まず自分をワクワクさせるために必要な事とはなんでしょうか。

人間の、こと創作物に触れている時のワクワク感は「好奇心」に由来します。「好奇心」というのは「未知であること」に対して向けられます。つまり、「未知」があることでワクワク感が得られます。ここから先は完全に私の持論になってしまいますが、「1から10まで決めた内容を書き連ねる」のではただの「清書」になってしまいます。プロットが下書きになって、それをほぼそのままストレートに文字にした場合ですね。これは正直つまらない作業になります。

「書く本人」と「それ以外の人(読む人)」の「未知」は当然ながら違います。多くの場合、「書く本人」は結末を知っていますが、「それ以外の人」は結末を知りません。連載小説の場合は、「書く本人」も落着点を探していたりするのだろうか? その辺はわかりませんが、共通して言えるのは「その過程を未知にすることはできる」という点です。

過程を未知にするとは?

「結末」は決まっているにしても、どのようにして「過程」を未知にするのか。これはですね、簡単なんです。

世界を作り込め、そして、登場人物たちに考えさせろ

「登場人物(キャラクター)」たちに考えさせればいいんです。その「世界」「状況」をしっかり作り込み、その中に「登場人物」を置く。「登場人物」たちがしっかり設定できていれば、彼らは彼らなりに考え、行動し、発言するはずです。あとは「作者」は眺めて、逐一その行動を「読む人」たちに適切な形で報告するだけで良い

作者は監督にすぎない

ここで大事なのは「世界」と「状況」の作り込み。そしてまた、「登場人物」たちの作り込み作者は「要素」を創り上げ、アップデートし続けるだけで良いと思うのです。「登場人物」たちへの「指示」は要らない。舞台演劇に例えれば、彼らは「本番真っ最中」なわけです。そこに監督や演出家がアレコレ言うのはおかしいでしょう?

監督や演出家が活躍するのは「練習」の段階までです。そこの段階までに、彼らは出演者(登場人物)たちに世界や状況を伝えきるわけです。詳細に、綿密に。

脚本はあるかもしれませんが(場合によってはアドリブ劇ですが)、それを「演じる」のは出演者(登場人物)たちです。監督が彼らの演技の度に、いちいち指示や説明をするのもおかしいですよね。だから、彼らが動く(=執筆する)時には、監督たる「作者」が「考える」のはおかしいのです。書き始める時=本番開始です。執筆中=本番中、であるわけです。ですから、監督は彼らの本番を前に、十分な情報を与え、彼ら出演者に合わせた演出を行わなければなりません。いったん走り出したら公演を中止するわけにはいかないのです。

そして過程が未知になる

監督はいっぺん彼ら出演者(登場人物)を本番舞台に送り出したら、あとはもうお客さん(読者)と一緒にドキドキするしかないんです。それは鍛えに鍛え抜いた出演者(登場人物)たちがどう演じるかの「ワクワク感」に他なりません。過程を未知にすることで、執筆は「下書きをなぞるだけの清書」ではなくなります。登場人物たちが考え、行動し、話す。セリフもしっかり感情を込めて状況に合わせた形で喋るわけです。登場人物たちの性格によっては、脚本をそのままやらないかもしれない。アドリブガンガンぶち込んでくるかもしれない。その過程を愉しみつつ、書き進めるわけです。

物語を自分のものにしろ

つまるところ、書き始める前に「世界全部を自分のものにしろ」ということです。そうすることで物語は勝手に進みます。これが書き方の全てではありませんが、私がそれなりの速さで作品を仕上げる時にはそうしていることが殆どです。

登場人物たちが自動的に考え、動き、喋る。そして脚本にある「結末」へと動いていくわけです。この感覚になったことがない人は、世界の作り込み、登場人物の作り込みが足りてないんじゃないかなと思う次第。しばしば悩んで筆が止まるという話を聞きますが、こうしておくと登場人物が有能でありさえすれば彼らが勝手に解決してくれるようになります。

ただし、登場人物を都合よく有能にしてしまうと、キャラの軸がぶれるので注意が必要です。監督である作者は、その状況や衣装や所作を読者に報告するだけでいい。それ以上は余計だし、それ以下は描写不足です。

そのちょうど良い配分というのは、「監督が一視聴者としてワクワクできるかどうか」という所です。それは自分が育てた舞台を客観的に見るということでもあります。その時に「なるほど、そう演じるのか」とか「そういうアドリブをいれてくるのか」と感じることで、「次はどう動くか」とか「さぁ、この状況でどう考えてみせる?」とか楽しめるようになるわけです。

逆に言えば、その辺が楽しめてないという事は、「練習」が足りてない。ドキドキワクワクではなくて、「失敗しないかどうかというハラハラ」になってしまっているのでは増してや。登場人物たちとの信頼関係なんですね、大切なのは。そして彼らを信頼に足るパートナーにするためには、「監督(演出家)」たる作者が、彼らを十分に育て上げておかなければならない。小道具や大道具にしても同様に。

準備8割

つまるところ、「準備8割」ということです。程よい描写(説明)バランスは練習で磨くとして、まずは準備をしっかりすることです。準備がしっかりできて、登場人物たちが個々の特性・所作で振る舞うようになれば、あとはきちんとした舞台設定を提供しておくことで、全て勝手に進んでいきます。

先ずはその領域に辿り着くべく、登場人物の一人一人としっかり話し込むことです。

描写の巧拙は個々人の才能や経験値に応じてありますが、作り込みに関しては(そのスピードに差は出ますが)努力次第じゃないかなーと思うわけです。できる努力から積み上げていきましょう。作品の見切り発車はもったいないですよ! 公演失敗のリスクを犯す必要はありませんよ!

さて、今回の記事はお役に立ちましたでしょうか。

それでは良き執筆ライフを!

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