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作品を書く原動力となるもの

エッセイ

私は自他ともに認める多産作家(っぽい何か)です。書くスピードも生み出す世界の数も、そのバリエーションも、そんじょそこらの人には負けない自信があります。というか実績がある。カクヨムを見てもらえればわかりますが、私の作品があるのはカクヨムだけではありません。まぁ、メインがカクヨムなので、カクヨムしか紹介しませんけどね。

私の数多の作品の中で、私が「フラッグシップ」とする作品。それが「セイレネス・ロンド」なのですが、この作品と他の作品との間には、発生源に大きな隔たりがあります。「セイレネス・ロンド」の源は「怒り」であり、それ以外の作品は「怒り以外」の感情の発露として生まれています。私は感情で小説を産み、論理で書くタイプです。理詰めで書き始めることはまず無く、一番最初、オリジンの部分はあくまで感情です。それは喜怒哀楽のいずれかに大別できますが、「怒り」が源となっているのは「セイレネス・ロンド」だけなのです。

今回はこの最も巨大なエネルギーを生み出し得る感情である「怒り」について書いてみたいと思います。

そもそも私はたいてい何かに対して怒っています。何かに不満を持っています。というより、この世のあらゆることに怒っているとも言えるし、この世のあらゆることに満足していない(≒不満)状態であるとも言えるのです。

とはいえ、誰かに怒鳴り散らしたり不平不満を書きなぐっていたりとかするわけではありません。というよりもむしろ、私はその方向性とはほとんど真逆です、見た目には。その辺のいわばネガティヴな感情は、理性と論理が抑えてくれているわけですね。この「蓋」がなくなった時、私の「怒り」がどうなるかはわかりません。そしてそれは私だけじゃなくて、この世のほとんどあらゆる人がそうだと思います。儚く脆い理性の蓋、あるいは弁が、正常に機能してやっと、これら感情の発露を適正に抑えることができているのです。そしてそれが、ワタシという人間を第三者の観測によって「理性的な人間である」と決定付けている。

だがしかし、外面は何であるにしても、私は基本的に怒っています。不満なのです。何が不満なのかというと、人間(というより社会)に対して、です。哲学書を読んで私は怒りに震えます。百年も二百年も前の哲学者の言葉を聞いて、私は空虚な怒りを覚えます。人間はあまりに変わらなさすぎる。そのことに対してです。だっておかしいでしょう。何世代も前の人が語っている人間たちが、あまりにも現今の人間たちと同じなのですよ。

変わるのが正義というわけではない。だが、愚かなまま変わらないのは正義ではない。私はそう考えます。

人間というのは、その総体としては非常に愚か……なのです。もちろん賢い人もいます。だから、あくまで「総体として」人間を見た場合と言っておきます。人間社会という怪物は、賢く理性的で愛の深い人間を食い潰すようにできています。使い潰す、と言っても良いのでしょうけれども、つまるところ「消費」している。言葉を、行動を、行為を、愛を、献身を、そういった彼ら彼女らが発するあらゆるメッセージを「消費」している。人々は努めて極めて享楽的なのです。

私はそのことに怒りを覚えています。現在完了継続用法である。この事実に気が付いたのはいつだっただろう。とにかくかれこれ二十年以上はそのことに対して怒っている気がします。「消費」するという行為に嫌悪感を抱いていると言っても良い。消費する行為というのは、エンターテインメント、つまり、娯楽です。娯楽が悪いというわけではありません。ですが、他方が唇を噛み締めながら提供する娯楽を一方的に享受・消費するという類の娯楽は、「例外なく悪」であると言えます。また、他方が意図しない用途で消費されるような娯楽もまた、「例外なく悪」であると、私は断罪します。

「セイレネス・ロンド」という作品は、そういったことに端を発する「怒り」から生まれた作品です。いまだ半分、ヴェーラ編しか終わっていないのですが、この三部作100万文字にて、そういった「怒り」の発露は一区切りしています。「女神よ、怒りを歌い給え」というイーリアスの一節は、その私の心境にまさにヒットしたわけですね。そこから連鎖反応的に(論理的に)作られた世界が「セイレネス・ロンド」の世界なのです。

この世界では「大衆」はすなわち「愚昧」の象徴として描かれています。これは終始一貫徹頭徹尾その通りです。メインとなる登場人物たちは「消費される側」の人間であり、事実、大衆の作り出す流れ――つまり世論――によって損耗・消耗させられていく。そしてまた、登場人物の一部は「消費させる側」の人間あるいはそれに類するものと言えます。大衆を操り、世論を決定付け、自分たちの目論見のために「消費される側」の人間を、大衆によって「消費させる」連中というわけです。

つまり、私の創作の原点である「怒り」のさらに源泉には、三つの立場があるということになります。

  • 消費される側
  • 消費する側
  • 消費させる側

……の三つです。もっとも愚かなのは「消費する側」であり、もっとも狡猾なのは「消費させる側」です。そして最も「優しい」のが「消費される側」ということになる。なってしまう。つまり、他の二つの立場は、この「優しさ」につけこんでいると言えます。彼らが利用し、消費しているのは「世界にとっての優しさ」であり、それは許されざる行為なのです。世界に優しさ(のような何か)が大きく広く根付かない理由というのも、そこにあると思っています。偉人の警句という形でしか遺らない。遺せない。いや、遺させない。

私は世界には常に一定割合の「優しい人」がいると信じています。なぜなら「優しい人」がいなくなれば、消費することも、消費させることもできなくなり、世界のバランスが崩れてしまうからです。だから、世界は働きアリのように、一定数の怠け者と、一定数の働き者を生み出し続ける。そして「優しい人」は常に消費されていっては補充されていく。つまり、「優しい人」というのは「世界によって消費されている」のです。「きみが必要だ」という言葉のヴェールに隠されたその本当の意味は、つまり「きみのような優しい人がいてくれなければ自分たちが困るから、きみが必要だ」ということになるのです。

優しい人は賢い。賢いから、愚人である「消費する側」には回れない。そして優しいから、「消費させる側」にも回れない。彼らは何処にも行けないのです、彼らは。ただ消費されるほかにない。「優しい人」には人間としての価値などはなく、彼らはただの情報であり、エンタメに過ぎないのです、この世界では。

私は「優しい人」の献身を、彼らを消費する者たちの下劣な品性を充足されるために、ただ「優しい人」の消費を繰り返すだけの意識たち(消費する側、させる側)に強い怒りを覚えています——その怒りの鮮度は下がってしまったとはいえ、火が消えたわけではありません。

そしてまた、それと同時に「優しい人」から抜け出そうとしない「消費される側」に対しても激しいもどかしさを感じています。実は彼ら「優しい人」も、そうであることに献身、自己犠牲といった自己満足を得ているのですね。私はそのことに対しても怒っている。なぜなら、それは決してフェアトレードではないからです。

これら——つまりあらゆる人々——への怒りこそが、「セイレネス・ロンド」を生み出した原動力です。このクソッタレなくらいにもどかしく、どうしようもない世界に生まれさせられてしまったヴェーラたち。その力をあてにし、娯楽とし、消費耽溺していく大衆、させていく神・悪魔のような何か。消費されていくヴェーラたち。

「優しい者は消費されて終わりなのか」「そうあるべきなのか」……そう問いかけ続けて得た答えが、「セイレネス・ロンド」ヴェーラ編三部作で描かれます。

と、まぁ、そういう具合に、「感情(ここでは【怒り】)」を「論理」で固めることで100万文字がスパッと生まれたりするわけです。小説の原動力として最もパワーを発揮するのが怒りや不満といったネガティヴな感情です。そのままシリアスに料理するもよし、反転させてコメディ全開で突っ走るもよし。

小説のネタが思いつかない人は、まず自分自身の中にある「感情」に目を向けて、徹底的に分析してみると良いかもしれません。「論理」が追い付かなくても「感情」のまま書いたって良いのです。大切なのは、「何かを生み出そうとする自分(の感情)」と「真摯に向き合う覚悟」です。人間にとっての最大の娯楽というのは、他人の感情です。他人の感情を「消費」して、自分の感情を創り出す・認識する。それが人間なのです。

というわけですので、以下の作品より始まる三部作をぜひともお読みくださいませ! 長いですが後悔はさせません。

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宜しくお願い致します。

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