「厭夢パート」につづきまして、「煉獄さん vs 猗窩座パート」。
いきなり来る「ラスボス感」。そりゃもう圧倒的ラスボス感。というのも、猗窩座って、登場シーンで一切御託も薀蓄もこねないんですね。いきなり炭治郎を殺しに来る。ペラペラよく喋った「厭夢」とは役者が違うということを、何も語らせないことで語りきっている。見事ですね、実に見事。
あ、この猗窩座のエピソード。鬼になった……というよりならざるを得なかった経緯もすっっっっっごく切ないんですが(全鬼の中で一番好きかもしれん)、この無限列車編ではそこは一切描写がなくて。もちろん原作にもない。だからここではただの戦闘狂の鬼としてしか描かれてないんですね。
だから、「弱者を見ると虫酸が走る」というような鼻につく台詞が目立っちゃう。でも、「お前も鬼にならないか」という有名な台詞でわかるように「相手の力量を極めて正確に測る」ことができる。そして価値観・価値基準がはっきりしている。「強さ」が絶対という極めてわかりやすい。単純に「戦闘力=強さ」なんですね。人間は老いる。傷つく。死ぬ。だから弱い。鬼になればその要素がなくなるんだから永遠に強くなり続けられる――という理屈。
しかし、煉獄さんは「老いることも死ぬことも人間という儚い生き物の美しさだ」「強さというものは、肉体に対してのみ使う言葉ではない」という台詞から、猗窩座と煉獄さんでは「強さ」の「価値基準が完全に違う」んですね、そもそも。ここまで極めてわかりやすい展開です。真っ直ぐに伝えるというスタンスもまた煉獄さんらしいし、猗窩座もまた武人然。ここまで出てきた「鬼」とは格が違う。初めて登場する「上弦の鬼」ですしね。他の鬼、下弦の鬼とはそもそも「全然違う」ことを如実に示している。猗窩座も煉獄さんも、小手先の言葉の応酬や駆け引きなんてしない。真っ直ぐに信念をぶつけ合う。でも、だからこそ相容れないわけですが。
そして圧倒的すぎるバトルシーン。これで滾るなと言う方が無理ですよね。漫画のコマをそのまま拡張したかのようなアニメーション。誰の期待も裏切らない。ufotableすごいぞ。
その中でも猗窩座はちょいちょい誘惑してきますが。
「俺は君が嫌いだ」「俺は鬼にはならない!」
真っ直ぐに迷いなく応じる煉獄さん。しかし視聴者にはもうわかっちゃうんですね。炭治郎にもわかっているように。「煉獄さんは【負ける】」っていうことが。
猗窩座は事実上無傷だけど、煉獄さんはどんどん消耗していく。実際にどれほど消耗しているかは、猗窩座が丁寧に解説してくれている。再生不能な傷を負っていることは誰の目にも明らかなわけです。
その一方であの台詞、「俺は俺の【責務】を全うする!」が来ます。
猗窩座が感動するほどの、震えが来るほどの意志の強さの発露。熱い。たまりませんね!
「お前は選ばれし強き者なのだ!」という猗窩座の台詞に、煉獄さんは母との記憶を呼び起こします。「弱き人を助けるのは強く生まれた者の【責務】だ」「使命」なのだと。
「俺は俺の責務を全うする!」という叫びが母の言葉にかかってくるんですね。列車の人々を一人残らず助けるという意味だけじゃなくて、「自分より力の弱い人を助けるんだ」という。猗窩座の言う「弱者」のことですね。でもそれは「(武力としての弱さではあっても)人としての弱さ」とは煉獄さんは感じてないでしょう。「力のある者は、力のない者を守る」=「俺の責務」という信念がある煉獄さんですからね。
そしてその「責務」への想いの強さが猗窩座の首を抉る! しかも、傷ついた上で、片手で。鬼の首ってめっちゃ硬いじゃないですか。それを半分まで抉ってるんですよね、片手で。猗窩座が初めて驚愕の表情を見せて、焦る。そのくらいのインパクト。煉獄さんは「絶対に離さん!」「お前の首を切り落とすまではぁっ!」――文字通り絶体絶命な状況でも決して諦めない。絶望的な状況でもやれることをやる。やり続ける。諦めない。もちろん、「悪夢だぁ」とかそんな弱音は絶対に吐かない。首を落とせないまでも、苦痛に耐えて夜明けまで持ちこたえる! あまりの強固な意志と、鍛え抜かれた身体のあわせ技に、猗窩座も打つ手がなくなってしまいます。いや、最終的には自分で自分の両手を切断して逃げるわけですが、コレは猗窩座にしてみれば恐ろしく屈辱的な選択だったはず。そこで最後の炭治郎への捨て台詞(心の声ですが)になると。
逃げる猗窩座の背中に向けて「煉獄さんは負けてない!」「誰も死なせなかった!」「煉獄さんの勝ちだ!」――そう叫ぶのは、煉獄さんを強く慕う炭治郎なんですね。煉獄さんは自分では「勝った」とは言わないんですよ。「(炭治郎が死んだら)俺の負けになってしまうぞ」という台詞で遠回しに「(炭治郎が死ななければ)俺は負けなかったと言える」ということを言うだけ。
そして自らの「死」を確信しながらも、弟や父のことを思う、禰豆子のことも伝える――残り少ない時間で生きている人たちへの言葉を紡ぐ。男らしいというか、理想というか。「胸を張って生きろ」「己の弱さや不甲斐なさにどれだけ打ちのめされようと心を燃やせ、歯を食いしばっても前を向け」「君が足を止めて蹲っても、時間の流れは止まってくれない。共に寄り添って悲しんではくれない」
何だこの煉獄さんのターン。
「もっともっと成長しろ」「俺は信じる」「君たちを信じる」
やるだけやってやり尽くした人間に、最後の最後で、この言葉を言われて成長しない人間なんていないと思うなぁ。煉獄さんは炭治郎たちに自分の「強さ」を継承してると思うんですよ。実際に原作では煉獄さんの刀の「鍔」を自分の刀に装着し、最終決戦でも使っているんですね。煉獄さんの「言葉」をどれほど炭治郎が大事にしていたかという事がわかります。無限列車編は原作では7~8巻のところですが、最終巻までキッチリ煉獄さんの想いを持っていくわけです。熱いなぁ。
話を戻して映画の方。
煉獄さんの最期を前に、「母」が迎えに来るんですよ。私はもうここで感動。やばかった。
そしてここで煉獄さん、ちゃんと救われてるんですね。周囲の人のことを考え、責務を全うし、悔いなく生きた。伝えたいことは伝えた。よし! みたいに自己解決していたところ、ちゃんと「母」が来る。
「(鬼となってまで)生きる」ことが幸せなんかじゃない。「(人として)死ぬ」ことに、「責務を全うして生きることができたという確信」が、煉獄さんを救ったんだろうなぁ。ここですごいなと思うのは、煉獄さんを救ったのは「お前頑張ったな」とか「煉獄さんすごい」とかそういう「他人」の言葉じゃないんですよね。自分の信念と確信、決断、行為。「迷いなく生きた」という現実。それらが煉獄さんを救っている。
俺はちゃんとやれただろうか、やるべきこと果たすべきことを全うできましたか。
煉獄さんは「母」に問いかけるわけです。ここで初めて「母」が煉獄さんに「立派にできましたよ」と応えるんですよね。私見ではありますが、これは「他人」の言葉ではないと思うんですよ。あんまり突っ込んだ考察するのもガラじゃないのでアレですが、とにかく煉獄さんはこの「母」の言葉で救われた。と。メタな感じで言うと、この1カットがなかったら、読者にも視聴者にもあまりにも救いがなかった気がするんですよ。見る人触れる人みんなに「煉獄杏寿郎は使命を全うし、安らかに死んだ」ということを見せているんじゃないかなって。
炭治郎が悔しがる。その「一つできるようになってもすぐ分厚い壁がある」という台詞もきついですよね。それを受けた猪之助の言葉も重いんだよなぁ。無限列車編の猪之助めっちゃ好き。彼らもちゃんと成長してる。受け継いでいる。そういうことをはっきりと示して、Fin。
見ごたえのある映画だったなぁ。
是非観てくださいな! 漫画もいいぞ。
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