創作物に「?」を覚えたとき、作者を疑う前に自分の考え方、知識、視野を疑う。これが肯定的に作品(小説とか)に触れる方法のひとつです。
自分が違和感を覚えたり、言い回しが気に入らなかったりしても、まず第一に「そこに作者のwillがあるかもしれない」と考えることです。考えなしのミステイクの可能性はもちろんある。でも、それを声高に批判する前に「そこに必然はないか」「何か込められていないか」というのを無意識のうちにできるようにならないと、優れた読者とは言えないのです。これは「対外的」なものではなく「自分がよりおおく物語(あるいは他の創作物)を楽しめる能力が優れている」ということです。
残念ながら、批評家気取りの人はとても多い。「物申す」ことでさも自分がその作品、作者よりも「優れている」と思いたい人だと思うんですね。そういう人。あるいはそう思って欲しい人。簡単に注目を集められるし、一定割合で支持者もつく。「自分に火の粉がかからない火事」が大好きな人は決して少なくないので。と、思っています。
が、もし、物語を作る側の人間なら、それはやめるべきです。私、「べき」はあまり使いたくないのですが、これは「べき」です。「自縄自縛」という言葉があります。他人を批判する人はその度合いに比例して「自分も批判されるのでは」という強迫的な感覚に陥ります。その結果、ますます「強く」なろうとして攻撃性が増し、やがて取り巻きさえ距離を取るようになると思います。そういう人をたくさん見てきましたし。
これはほぼすべて、身から出た錆。他人の作ったもの、大事なものを晒したり声高に罵ったり、あるいは陰湿につついたり。そういうことをする人というのは、自ら作ってしまった闇に急き立てられてしまうのです。
物語の話にもどしますが、つまり、他人に対して批判的な態度を取っていると、「自分も批判されるかも」という気持ちが湧いてきて、結局なにも書けなくなります。なにも、です。よほど図太い神経の人ならともかく。
ただ、批判的な目。これを持つなと言っているんけではありません。態度に出さなければいい。自分のなかに留め置けるなら「なぜこんな書き方?」「なぜここでこういう展開?」という疑問(あるいは疑義)を呈するのは悪くない。もしそこで作者の真意らしいものに気づければ最高ですし、或いは「やっぱりただの技術(とか確認とか)不足じゃん」なら「自分が書くときは気を付けよう」というように転化すればよいわけですから。
そして、自分が最高潮に批判的にあるいは否定的に見てもよいのが、「自分の作品」です。他人の作品に変な意見してる暇があるなら、自分の作品をこれでもかというくらいにぶっ叩けばいい。あるいは愛でまくってもいい。
ええ、そう。この二つ、本質おなじなので。どっちも相手(=作品)を「よりよく」あるいは「完璧に」したいというのが素地にあるからだと思います。愛でまくっている人だって「あれ、こここうしたらもっとよくね?」と気付いたら音速で直すでしょう? 叩きまくってこれでもか! と修正いれていく人と本質同じです。けっこうなことです。
というわけなので、他人の作品とかそういうのをあげつらってワーワーやってる暇があるなら、そのアグレッシブな感情、勢いを自作に向けましょうよ。もし「正しく」批判できているのなら、自作に目を向けたらよりよくなるはず。自作が最高最強誰からも批判を受ける余地はない! なんてものはありません。ゆえに、自作品に対しては、いくら力を向けてもよいはずなのだと思いますよ。
無駄なエネルギー使ってないで、すべてを自分の糧にする! くらいの気概で自身の創作活動や他人の創作物に向き合ったらいいと思いますよと私は思うのです。
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