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小説を書き続けるために

エッセイ

例えば私に「小説を書くのを辞めろ」と誰かが言ったとしても、三十年やってきたものをいまさらやめろと言われても無理な話であります。休止はあったにしても結局戻ってくることはわかっているので、私は書くのをやめないでしょう。 こうしてネットとそこに至るためのデバイスが存在し続けている限りにおいては。まぁ、誰にも本当に見向きもされなくなったらひっそりと表舞台から消える可能性はありますが、それでも「書く(アウトプット)」という(今の私にとって)本質的で根源的な欲求には抗えないと思います。

書くという行為

私にとって、「書く」という「アウトプット」は、自分の中の情動とも言えるものを正当化し、顕在化し、現実化するための手段です。そしてその果てには夢の実現(書籍化や映画化や……)というものの可能性を秘めています。夢が実現したところで、この情動や衝動たるものが止まるとは思えませんので、結局アウトプットはし続けるわけなんですけど。

だってもったいないじゃないですか。物語はいくらでも作れます。私には生成能力がある。それを「うまく」書けているかはこの際さておくとしても、私は1日1作品プロットを書けと言われれば書きますし、書けます。サラリーマンしてる状態なら週2本ってところですが。ともかくも、以前書いたように、私の衝動・情動の正体は「怒り」です。私は常に何かに対して怒っているので、それをいったん受け止めてエネルギーに変換して、発散しなければならないのです。じゃないと自分の質量で自壊してしまう。そういう危機感もあります。とにかくエネルギーが有り余っている状態なので発散が必要なのです。それも「何か残る」ような形で。

それは多分ずっと昔からそうで、プログラムを含めて考えれば、たとえ小説を書いていない期間であっても、私は常に何かを創り続けてきました。それはとことんオリジナルであり、とことん追求した形であり。その辺のこだわりはずっと変わらず続いてきました。そしてこれからも貫くでしょう。そしてそうでなければ「創る」とは言えません。想像(クリエイト)にして創発(エマージェンス)——私の行為はそういったものに類します。

クリエイトとエマージェンス

クリエイトというのは、すでに材料や要素として存在する事物を組み合わせて一つの別のものを新たに存在させる、いわばコピー&ペースト的な行為を言います。経験や価値判断といったものが作用することで、理性的かつ論理的に世界が創られます。その場にないものは利用できませんから、必然「最良の形で組み上がったオブジェ」こそがクリエイトという行為の結果として発生することになります。

一方、エマージェンスというのは、単純なコピー&ペーストにとどまりません。そこには「なにか」が介在します。それはプログラムのようなものかもしれませんし、直感のようなものかもしれません。が、その「なにか」の中を垣間見ることはできません。とにかく、1+1を2ではなく、3や10、あるいは100兆にまで変化させる「なにか」です。作業的には一見すると(クリエイトと同じく)単純なコピペに見えるかもしれませんが、その結果として名状し難い形の「オブジェ」が出来上がります。クリエイトと同じ要素を使ったとしても、そこにあるのは全然違う要素、違う機能、違う名前を持ったものです。

その違い

クリエイトとエマージェンスの違いがなぜ起きるのか。そこにある違いは何なのか。

それこそまさに「なにか」なのですが、これを構成する要素は「存在しないこと」というものと、衝動・情動のような理性で説明の付けられない「感覚」です。クリエイトという行為は理詰めであり、ある意味必然で構成されます。他方、エマージェンスという現象はある意味直感的であり、ある意味偶然で発生します。要素は同じでも出来上がるものは全く違います。

私にとって必要なのは、どちらかといえば後者=エマージェンスです。クリエイトするに足る材料はたくさん持っていますし、もちろんそうやって作品を創ることはできます。が、これでは感情(主として「怒り」)の発露である情動や衝動によって生まれたエネルギーを消費できません。であるからこそ、創発(エマージェンス)という行為を外せないというわけです。

外発的動機付けとルサンチマン

小説をクリエイトできる人は大勢います。それはほぼ外発的動機付けによって起きる行為です。たとえば「書籍化したい」というのも外発的動機でしょう。

しかし、外発的動機付けによってのみ書いている人たちは、「存在している材料」の論理的組み合わせでしかものを作れません(作りません)から、その外発的なものが過ぎ去ってしまうと途端に書くのをやめることが出来ます。また、その動機付けを邪魔するもの(環境要因や、あるいは粘着してくるような人)によって簡単に筆を折ります。クリエイトというのは「其処に在るもの」を利用して、論理的整合性に富んだ、美しいものを作ることが出来る行為です。しかし、外発的動機によるものであるために、継続性には「?」がつきまといます。

一方で小説をエマージェンスする人というのは、その実態としては(クリエイトする人に比べると)多くないと思っています。エマージェンスというのは内発的動機付けによって発生する現象です。ある種のルサンチマンと言っても良いかもしれません。私を含め、こういった手合いの人たちは、誰が何と言おうと創造活動を続ける人たちということになります。内発的エネルギーが尽きるまで、彼ら・彼女らは創り続けます。そうせずにはいられないからです。そして「そこに在るもの」「そこに在るものがないということ」など、とにかく物の「有無」を問わずに、しかもその象形の何たるかを問わずに、とにかく創り続けます。抽象芸術なんてのはその類でしょう。彼らは王蟲のように、その身が飢餓で果てるまで走り続けるわけです。だから、創造活動を辞めた時、彼らは死ぬのです。

さて、長々と語ってきましたが、別にクリエイトという行為をディスっているわけではありません。内発的動機によって湧き上がる衝動を論理的に分解してクリエイトする人たちも大勢います。私もその一人だったらいいな。そんな感じです。

創作活動者は減ってはならない

さて、実はここからがようやく本題になるわけですが、私の主張として「創作活動者は減ってはならない」というものがあります。内発的だろうが外発的だろうが、とにかく「モノづくりをする人」は減ってはならないと。数がいることで競争が生まれ、競争が生まれることで質が上がります。質が上がることで文化的価値が保証され、そしてその結果として、「モノづくりをする人」への意識付けが担保されます。

「モノづくり」の国であるはずの日本国に於いて、クリエイターたちがこれほどないがしろにされている理由は何だろうと思ったわけです。それは多分この「意識付け」の問題です。何かを創造し得る人というのは百人に一人とも、千人に一人とも言われています——まして完成させられる人はその何十分の一。レアすぎるのです。

だから「絵師」に「無料で描いて」とか言えてしまう人が現れたりするわけです。彼らが技術を培うのに使ってきた時間に、全く意識が向いてない。彼らのしてきた努力に、全く意識が向いていない。それは想像力がないとも言えますし、論理的思考力がないとも言えます。が、彼らの能力不足を嘆いても仕方がないのです。なぜなら、彼らはそういった能力を醸成する機会を得られなかっただけだからです。

意識付けの話

彼ら「非創作者」たちの認識を変え、こと「クリエイト」や「エマージェンス」に対する想像力・論理的思考力を養わせるために必要なのは、意識付けです。とはいえ、彼らにこの記事のような文章が届くことはまずありません。なぜなら人は、自らが求める情報にしか辿り着かないからです。であるならば何が必要か。

それは「創作活動者が身近にいること」です。それも「自分はクリエイターだ」と明言できるレベルの人が、です。現在、我々の多くは「クリエイター」であることを秘匿して生きているのではありませんか? ネットで活躍はしていても、リアルでは明かしていない——そんな具合に。ちなみに私はリアルでも「クリエイター」であることを明かしています。そして「創造活動に対しては対価を払うべきだ」と主張しています。なかなか届きませんが。

話を戻して、ともかくも「自分はクリエイターだ」とリアルでも明言できる人を増やすためには、その「クリエイター(顕在・潜在)」を増やし、創造物の質を上げ、社会的地位を築かなければならないはずです。そうすれば必然、「非創作者」たちの意識も変わる……と期待しています。

で、あるからこそ、クリエイターには減って欲しくないのです。

つまり必要なのは内発的動機

外発的動機によってクリエイトする人たちというのは、その外発的な動機が無くなった瞬間に、クリエイターであることを辞めてしまいます。燃え尽き症候群なんてのもこの一端と言えるでしょう。あるいは外からあれこれ言われてうんざりしてしまって辞める、なんてのもこちらです。それはもちろん個人の自由なのですが、私の主張としては先述の通り「クリエイターは減ってはならない」わけですから、何とかして続けて欲しいわけです。むしろ増え続けて欲しい。競争相手は増えますし、創るべき作品の質は極めて高いところを要求されるようにはなりますが、それはそれで。

クリエイターがクリエイターで在り続けるために必要なのは、結局のところ「内発的動機」であると言えるでしょう。では「内発的動機」がない人は駄目なのか——という話になると思います。が、そうではありません。

内発的動機は育つ

実はこの「内発的動機」というのは「外発的動機」が熟成した結果、育っていくという側面があります。最初は「褒められたい」「賞をとりたい」という外発的動機から創作を始めた人が、いつの間にか「夢中になって」「自分から」創り始めるようになる……などの現象は、まさに相転移のようなものが起きた結果発生しています。こうなってしまうと人は戻れません。

内発的動機による活動は、いわば自家発電です。ザックリ言うと、【創りたいと思う→創る→できる→快楽物質→再び快楽物質を得たいと思う→創りたいと思う→創る→できる(以後ループ)】……というサイクルができるためです。

最初から内発的動機によって動いている人って実はそれほどいない。一部の天才を除いては。私のような凡俗な人は、外発的動機を相転移させて、内発的動機にして、以後自家発電を繰り返すようになるわけです。が、ここに至れている人は実数として非常に少ない。Twitterを見ていても「ああ、この人はまだ外発的なんだな」と感じる人が少なくありません。褒められたい、認められたいが一番に来ている人です。私もそりゃ褒められたいし認められたいんですが、それがなかったからと言って「書く」のを辞めるかと言えば断じて否です。やった結果、評価がついてくるわけであって、評価が欲しくてやっているわけではない、という話です。

どうしたら外発的動機が内発的動機に変わるのか

外発的な動機がどうしたら内発的なものに変わるのか。クリエイターが一生現役でクリエイターであり続けられるのか。

私は「自己追求」に鍵があると思っています。「自分」というものにフォーカスをあて、とことん掘り下げ、自分の中の衝動や情動と——あるいはルサンチマンと——向き合い、分析する。「なぜ」を積み上げていく。すると自分の「欲求」が明らかになってきます。その多くは「承認欲求」でしょう。

欲求といえば、「マズローの欲求段階説」が有名ですが、私はクリエイターに当てはめることに関しては、この説には懐疑的です。なぜならクリエイターは第一段階の「生理的欲求」すらかなぐり捨てて物を創ることがある(そういう人もいる)からです。たとえ「承認欲求」が満たされなくても、「自己実現欲求」にも至りますし、とにかくめちゃくちゃなのです、クリエイターは。

クリエイターであり続けたいなら、するべきことは実は一つなのです。

自分で自分を承認しつづけること

……ということです。自分自身で自分(と自分の作品)を承認し続けることが必要なのです。「自分の作品に満点を付けろ」……というわけではありません。「創った事実」を「承認する(褒める)」。これだけでいいのです。他人との比較なんて無駄なことをしてはいけません。たかだか数年の執筆歴で東野圭吾氏や京極夏彦氏と戦えるわけがありません。他人との比較というのは、つまり巨人たち相手に生身で挑もうとするような愚行です。「前回の自分」を超えていれば良いだけの話なのです。

前回の自分を超えられない……なんてことはありません。磨けば必ず超えます。磨く努力は怠ってはいけません。創作活動は、そんなに簡単なものではありません(だからこそ、社会的地位の向上が不可欠なんです)から、努力は必要です。でも、超えるべき相手は「前回の自分」です。そして超えたらひたすら自分を「承認する(褒める)」。それだけで内発的エネルギーは高まっていくものです。それが閾値を超えると、「外発的動機」が「内発的動機」に相を変えるわけです。

クリエイトからエマージェンスへ

エマージェンスの段階に至ってしまえば、あとは自家発電でいくらでも作品は書き続けられます。ある種病的なところはあるかもしれませんが、創造活動を続けていく上では欠かせない要素になるのではないかなと、私は思っています。

さて、今回の記事はお役に立ちましたでしょうか。

それでは良き執筆ライフを!

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