小説家は虚構をあやつる職業、虚構士だ……?

エッセイ

そもそも「虚構」はどこにあるのか

小説書きが因果な商売である理由

さてさて、我々クリエイタ―、こと小説家という奴は、特に因果な商売・性分をしているのであります。どういうことかと申しますと、ノンフィクション専門作家でもない限り、私たちは「虚構」を作っている。虚ろな構造物(ストラクチャ)、まさに虚構なわけであります。——ああ、すみません、私はまだ「小説家」の立場にありません。一応言っておかないと。

さて、この虚構。しばしばネガティヴに語られることの多い素材です。「現実から逃避した結果作られている」とか「想像とかメルヘン過ぎる」とか「現実に足をつけろ」とか、まぁ、なぜか世の常識人あるいは一般人と呼ばれる人たちからは、とかく目の敵にされがちです。彼らは彼らで小説やアニメや漫画や映画やドラマを見て楽しんでるはずなのにね、なぜか「創る側」に対しては変にドライな目を向けガチです。

これってとっても不思議なんですが、当事者に訊いても良くわからない返事しかもらえないんですよね。あなたたちが楽しんでるそのエンタメ、創ってるのは同じ人間なんですけど、って言ったとしてもね。うーんうーん? 理解に苦しみます。

虚構は現実に支えられて存在する。だから……

そもそもこの虚構と呼ばれる「概念」、いったい全体どこから生まれているのでしょうか。現実の下支え? 現実とは別の次元のもの? いいえ、違います。「虚構」を支えているのが「現実」なんです。現実ありきで虚構は存在する。虚構は現実を踏まえなければ存在できない。私はそう考えているのですね。

だから、虚構——すなわち物語――を生み出すというのであれば、「現実」をとことん知らなければならないし、仮にその現実を否定するにしても、いったんは自分の中でしっかりと咀嚼しなければならないと、私は思うわけです。目の前にあるものを食わず嫌いしてる場合じゃない。まして今はネットの時代。紙媒体でしか情報を得られなかった過去の文学の世界とは、「現実」が違いすぎる。「現実」が広く深い。調査能力のために情報リテラシーだって求められるんです。

というか、そもそも「なぜ書くか」

……を考えた時。とりわけ、「小説家になろう」や「カクヨム」に発表するというように「書いたものを他人の目に触れさせる動機」を考えた時。突き詰めて突き詰めていくと、つまり「知って欲しい」「共感されたい」——そんな思いがあるのではないでしょうか? 私は「私の物語が最高のものの一つだから私の物語は読んどいたほうが良いよ」と言いますが、これの根底にはそんな思いがあるわけです。セイレネス・ロンドの戦争論にしたってそうですよ。

こんなことがあった、あんなものをみた、こんな風に感動した……それを「物語」という「虚構」に再構成して、皆(読者)に分かり易く伝えることが、「小説を書く」という行為なのではないのかと。私は思うわけです。我々文章を作る能力のある人間は、その「現実(あるいは事実)」を「共感しやすい形に再構成する」能力を有している。現実は現実で埋め尽くされているから、人間の意識の持つ可処分領域とも呼べる場所に「その物語」を保存している。それが創造性の発露であるし、同時に虚構の中に置かれているモノ、なんだと思うんですね。どれほど現実に近いものであったとしても(もしかすると「ノンフィクション」と銘打たれたものであったとしても)、物語が現実にならないという理由はそこにあるのじゃないかなと。

現実ってのはそういう感じでして、虚構ってのもそういうもので。我々小説家(的ななにか)は、虚構士とでも呼ぶべき職業なんですよ。なんかファイナルファンタジーみたいですが、とにかくそんな感じ。現実とは違う所から何かを表すわけだから召喚士とも言えるかな。プログラム的には継承してスーパークラスを呼び出すとかそういう感じ。我々は虚構クラスをエクステンドしていて……とか考えだすと止まらないのでいったん停止。

なんせ我々、虚構士ですから。

なぜ虚構にこだわるのか

……という副題をつけましたが、実は私たち、別に虚構にこだわっているってわけじゃないと思うんですよね。だって、エッセイとか受けるし。カクヨムでも、小説家になろう、でも、エッセイはウケます。これは本当。現実と虚構を繋ぐ微妙な位置にいるのがエッセイなんですよね。だから、現実に足をつけたまま虚構世界にアクセスできる――それがエッセイ。子育てエッセイ、ペットのエッセイ、趣味のエッセイ、とにかく何でもです。でもこれ、虚構世界なんですよ。書いてる本人にとってだけ、現実。読んでる人は頭の中でそれぞれに世界を創るわけで、つまりこの世界ってのは虚構であって。

だからつまり、私たち虚構士(←気に入った)は、彼ら現実にしかアクセスできないはずの人たちに、虚構へアクセスするためのメソッドを提供しているわけです。それによって、彼らは虚構に自然とアクセスし、虚構を現実っぽいものとして共感し理解する。小説家、いや、虚構士っていうのは、自分が創った虚構が、現実の一部であるかのように振舞ってくれることを夢見てるんじゃないでしょうか。社会現象を巻き起こす、現実のグッズとして誕生する、クトゥルーのように次々と派生が生まれる、メディアミックスされる、そういう現実相への作用するだけの物理的実体を虚構に与えようとしている。そんな気がするのです。

そして私たち虚構士が私たちの想像する世界を顕現させるためには、現実はあまりにも不向きなんだと思うんですね。だから、手段として虚構を選んだと。虚構でオブジェクトを作り、現実にインスタンスを生成する、そんな手順(メソッド)を選んだんだと思うんですね。

虚構は現実の延長

しかしながら、「虚構」というのは先述の通り、「現実」によって支えられて存在します。だから、我々虚構士はどういう形でアレ現実をよく見、よく聞き、よく知る必要があります。だからいろんな情報に狂ったようにアクセスするんですね。優れた小説書きが物知りであるというのには、そういう理由があるんだと思います。人間観察もその一端でしょう。人間てのは「現実」の中心ですからね、なんだかんだいっても。

思い当たるところ、あるんじゃないですか?(笑)

優れた虚構士は、優れた現実観測者でもある。私はそう思うんですね。であればあるほど、虚構は力を持つ。強力な召喚獣が登場するわけです。単なるテクニックや流行に囚われない作品。一過性で終わらない作品。そういうものを生み出そうというのなら、時代をまたぎ超えるような作品を創りたいというのなら、まずは現実をしっかり見ることから始める。現実をその身で体験するところから始める。

そういうアプローチがあってもいいんじゃないでしょうか。我々虚構士は、虚構の世界に引きこもっている場合ではないのです。虚構をより強化するために、無限の面を持つ球体のような現実と向き合わなければならないと、体験していかなければならないと、そう思う次第です。

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