文章をそれっぽく。

エッセイ

小説書き(趣味)としては引退した身の私です。新たなものは書かないという意味ね。既存作は「セイレネス・ロンド」をはじめ使えるだけ使いますけど。

さて、四半世紀以上を文章書きを趣味とし続けた私ですが、古今東西「文章が書けない」「読みやすい文章にならない」などの声が聞こえてくるので、「文章」にフォーカスを当てて、なんとなく語ろうかと思います。

さて。

ブログでも小説でもそうですが、文章にとって一番大切なのは「伝わること」だと思います。どんなに流麗な文を書いても、受け取ってもらえなければ意味がない。文章の美しさというと、とかく語彙力やテクニカルな言い回しがフィーチャーされがちですが、私はそうじゃないと思います。

そもそもの「文章」の存在意義は「誰かに何かを伝えること」にあるのですから、どんな形であれ、受け取る側が一発で「あ、そういうことね」とわかり、かつ、誤解を与えにくい文章が「美しい」のだと。なので、どう書いたらかっこいいかとかとか格式高く見えるかとか賢そうに見えるかとか、そういうのはすっぱり置いときましょう。見栄を張らず、肩に力を入れずで書けるようにならないと、そもそも文章を「書き続ける」ことは難しいです。

また、同時に「どうやったら『絶対に』誤解なく伝わるか」もいったん置いておきましょう。というのは、「すべての人に誤解されずに伝わる文章」はあり得ないからです。「どう理解するか」は読み手にかかわる部分が大きく、たとえば「故意に誤解しようとする」人たちには何を言っても無駄ですし、「一部を切り取って判断する」類の人に対して「間違いなく伝えよう」としたところで労力の無駄になることが多いです。ただ、大半の(悪意のない)読み手が「誤解しにくい文章」を書くという意識は必要です。

これをするためにはまずは平易で読みやすい文章を作ることが第一です。難しい言葉を使うな……というわけではないです。難しい言葉が出てきても、読み手が理解できればいい。もちろんここには読み手のリテラシーというものが加わり、そのさじ加減が難しいと言われます。

が、実際のところ著名な作家の作品を見ても「簡単な言葉」しか出てこないかというとそんなことはありません。なので「難しくて読めない」といわれた場合、「その言葉」がどうのではなく、「文脈の構築」自体に失敗しているのです。単語をちくちく易しく言い換えしたところで、その文章は読みやすくなんてなりません。構造の問題です。

主部と述部、修飾語。まずはここだけに注目します。大事なのは修飾語の位置です。修飾語が出てきたら同じ文章内でぐるぐる動かして「最適な位置」に置くようにします。

ひとつの文章ができたら、今度は個々の文章の関わりを見ていきます。文章と文章を「糊付けする」イメージです。流れるような文章、するすると頭に入ってくる文章というのは、この「糊付け」がとても上手いのです。

こうして小さな文脈ができたら、それを含む文章のグループの関連付けをします。文(センテンス)や段落(パラグラフ)、こういったものがシームレスに、あるいは故意にぶったぎられていれば、少なくともその辺りの文章は一連の流れ、つまり文脈として読者の頭に入ります。

という構造の話をしてから言うのもなんですが、実は一番最初に考えるべきはこれじゃない。

誰に何を伝えたいか。というところが大切。まあ、このことは偉大な先達たちが何度も何度も言っているところですが。

で、それがぶれていると、何をどうしたところで、ぼんやりした文章にしかならないのです。このブログのようなエッセイ?にしても然り、小説にしても然りです。もっとも「誰に」という部分をいきなり考えろというのはかなりハードルが高いと思います。が、「何を」は突き詰められるはず。

何かを作り始める前に、「何を書きたい(伝えたい)のか」ということを明確にする。……ということを習慣化できさえすれば、文章を書き続けることも、物語を作り続けることも難しくはありません。

あとはですね、自分の書いた文章は、必ず日を置いて読み直すこと。そのときに僅かでも詰まる箇所があるとしたら、あなた以外の人は100倍引っ掛かっています。日を置いて冷静に……。

それとなにより、書き続けること。続けていればある程度の水準までは必ず上手くなる。運が良ければ神の領域にいくかもしれない(笑) そしてそのためには、やっぱり楽しくやるってのが一番だと思います。テクニカルな話もしましたけれども、結局それに勝るものはないのです。

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