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他人によって付けられた「値札」をありがたがる風潮

エッセイ

さて、カクヨムにて以下のエッセイをUPしました。

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とりあえず↑をざっと眺めてほしいのですが。

まず「プロ」だの「アマチュア」だのの間に垣根があると思ってる時点で、もうすでに時代遅れなんじゃないかなという気がするんです。最近特に。私はもちろん「書籍化」したい。それは「オーソリティに認められた印」を手に入れたいということなんですよ。「作品の価値」とは全く別に。もちろん、「作品に価値がある」と第三者に言われたい。もてはやされたい。でも、それと「私が思う私の作品の価値」とは全然違うヴェクトルのものだと思うのです。たとえばプログラムの試験を受けて無くてもプログラムで生計立ててる人はいっぱいいますよね。試験を受けて合格したら「へぇ、すごいね」とは言われますよね。でも、その人の「プログラムの価値(質)」は変わらない。

自分の作品にいくらの価値があるのか。創造性による付加価値があるのか。

価値を決めるのは「第三者」ではなく「自分自身」であると思うわけです。それが「第三者」的に許容できる範囲であれば、「売れる」。そもそも商品ってそうですよね? 売り出す前に「これ、いくらで売ったら良い?」って消費者に訊きませんよね? 訊くとしても何十万という意見を集約して、決めるのは販売者です。また、敢えて値段を高くしてそれ自体に付加価値を付ける商品だってあります。薄利多売を目指すものもある。でも「値札は自分で決めてる」という点はどれも共通です。

たとえば出版社に「この本は1000円で売ります。あなたの取り分50円ね(※印税率は適当です)」と言われたとします。なんかおかしくないですか? いや、出版流通を考えたらそうなるのは必然なのですが、それは出版社の都合ですよね。クリエイティヴなモノの事情として、それを創るクリエイターの目線に立つと「あ、俺の作品の価値って1000円なんだ。出版流通は9割も貢献してるのか」ってなるものなんですかね。1000円で売られるということは、その作品には1000円の価値があるってこと? いやいや、実際にもらえるのは100円とか50円とかですよね。つまり「あなたの作品は50円の価値です」って言われてるってことなんですよ、これ。1000円じゃないんですよ。何万部印刷しようが関係なくて、「一人に2~3時間[=小説読む時間]の娯楽を提供して50円」てことなんですね。

もちろん、100万部売れる作家にとってみれば数千万~億単位でお金が入りますから「いっぱいもらった」ってなるかもしれないですが、1万部の作家にしてみれば(1万部でもすごいけど)、実質小遣いですよね。それだけじゃ食べていけない。未来の保証もない。出版社は作家ナシには成り立たない。なのに、なぜか出版社がオーソリティーになっている。そしてなぜか作家は出版社が作ってくれる値札を喜んでぶら下げている。読む人も読む人で、それこそが、オーソリティーによって付けられたランクが絶対的指標だと信じている。もちろん、「編集」によるあれやこれやが加わって価値は増すでしょう(多分) しかし、その起源は、つまり「0」を「1」にしているのは「作家自身」ですよね。本来、オーソリティーは作家側にあるんじゃないでしょうか。

どうした作家。なにしてんの作家。ていうか、大御所作家、なにしてくれてんの。いや違うな、なぜなにもしてくれんの。そしてWEB小説のアマチュア。なにやってんの。なんで現状を甘受してんの。大御所作家が質で安牌だとすれば、アマチュアWEB小説家は甚大な量と未来と可能性を持っている。結集すればたとえば保守的な大御所が何を言おうが仕組みは変わるんじゃないの? と、思うわけです。

受け身過ぎるんですよ。現状を受け入れすぎなんですよ。なんかおかしいんですよ。いわんや作家になろうっていうのに、想像力も行動力も発信意志もなさすぎなんですよ、総じて。きちんと「意見」を表明できない、する気もない人は、結局「自分自身の未来」すら見ることができていない人なんです。

自分の作った・獲った・育てたものに、他人によってつけられた値札をありがたがるのは、農家さんとか漁師さんとか養豚業者とかそういう人達ですよね? 私たちは獲物ですか。家畜ですか。違いますよね。

自分の生み出すものにはこのくらい価値がある。自分にしか生み出せない。レアリティは高い。自分たちによるそういうアピールが必要なんじゃないですか? そしてそれが当然になれば、作家は自分の責任に於いて自分の価値を決められるようになる。旧態依然とした出版の「常識」ではなく。

そもそも「常識」というのは「アナクロニズムの最先鋒」を言う言葉です。「常識」として認知された瞬間から、その「常識の時間」は止まり、時代に取り残されていくのです。出版の世界はあまりに「常識」に拘泥しすぎた。「電子書籍」が出てもその出版構造が変化しなかったように。何十年前からの「常識」を未だに錦の御旗に仕立てているし、揃いも揃ってありがたがっている。

これからの出版業界を変えていくのは、WEB小説家だと私は思っています。なぜなら「数」がすごいから。「数」に対して「お金」が動けばすさまじい潮流になる。もはや出版社やWEBプラットフォームが作家の上にあぐらをかいていられる時代ではないし、それを許容している場合でもない。使わせてもらってる、出版させてもらっている……その事実は事実ですが、我々は「商品を提案し作っている」。つまり「0」を「1」にしているのです。出版社やWEBプラットフォームはこの「1」を「10」とか「100万」とかにすることはできても、「0」を「1」にはできない。

現今つまり、オーソリティーというものは、もはや作家に(=「0」を「1」にできる人に)移っているのです。私は古い人間ですし「プロ」というステータスはもちろん欲しいです。が、「プロ」だからお金をもらえて、「アマチュア」だからお金をもらえない、というのは構造上ナンセンスです。そして「作家」が自分の「価値」を自分で決めて掲げられないというのも、作家の主体性のなさを強く表しています。言ってしまえば家畜、獲物……つまり底辺です。食っていけないプロもいれば、アマチュアWEB小説家で十分食っていける人もいる――それが当たり前だろうと思うわけです。実際、現在のオーソリティーに認証された(受賞など)人で10年生き残ってる人はごく僅かですよね。つまり、現在のオーソリティーは未来なんて担保してくれないわけです。

WEB小説という文化が当たり前に認知され、スマホでオンラインにアクセスして読むのが当たり前になりつつあります。プラットフォームが広告収入なりなんなりで報酬を得るのは当然の権利です。場所を提供して、作家の価値を演出しているわけですから。出版社もまたただのプラットフォームに過ぎません。電子か物理かの違いしかない。「場」としての価値は同じなんですよ。だから「作家よりえらい」わけじゃない。彼らが「ほら、この値段」と渡してくる値札を平身低頭して受け取って、首からぶら下げてドヤ顔している場合ではないのです。

「プロ」と「アマチュア」。その線引きに何の意味がありますか。

まず当事者が、それについてよくよく考える必要があります。

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