なんか今突然思いました。小説界隈って、実は変化してないんじゃないのかと。いや、たしかに変わってるんですよ。変わってるんですが、どうにもぐるーっとループでもしてるんじゃないかと。ファッション業界と同じように。
勿論、媒体(メディア)や方法論は変化しています。それはITの進化と共に避けられないことですし、忌避するべきことでもないので、個人的には大歓迎です。それは核戦争でも起きない限り後退することはないでしょう。例えば今、原稿用紙に万年筆で書いて、書棚にしまっておしまい……なんて人は殆どいませんよね。スマホなりPCなりポメラなり、とにかく電子機器を使って書くのが主流ですし、WEB派・公募派・どっちも派(+趣味派)がいるにしても、何らかWEBを利用している。情報収集や広報を含めてね。
ただ、「小説」というのはなんてアナクロニズムに囚われているんだろうと思ったわけです。そもそも「文字」である必要ってあるのかと。「文字」→「単語」→「文」→「文脈」→「物語」となるのはわかるんです。が、いつまで電子・紙を問わず文字だけにこだわっているんだって思ったわけです。勿論、「文字だからこそ良い」ていう文化はあります。私もそう思います。
が、ライトノベルが「表紙買い」「挿絵買い」されるのと同様に、またあるいは「映画」「コミカライズされたもの」から「原作」に戻ってくることもあるでしょう。これって、つまり「文字じゃなくて良い」ってことにニアリィイコールになりませんか。「文字」を読むのが目的じゃないですよね、多くの人にとっては。文字を通じた「文脈/物語」を見ることが目的ですよね。
だったら、文脈を素早く届け、物語に素早く集中できる環境を作るのってすごく大事なんじゃないかなと思ったりするわけです。それは絵だったり動画だったり音楽だったり……つまり、インターフェイスの工夫です。あらゆる物語の後ろには、究極的には文字で作られた世界があるわけですが、それを覆い隠し、必要な情報だけを取捨選択して出力して楽しんでもらう。実はその裏側に走っている「機械語」のようなものこそが小説という文字メディアの本懐なのではないかと思い始めてきました。例えば、シェイクスピアを小説家だと誤解している人は少なくないと思いますが、彼は西暦1600年・エリザベス一世の時代の劇作家です。舞台で演じられることを目的として文字を綴りました。もっと言えば、近代英語(Modern English)の時代ですから今とは文法や単語が違っています。が、後世、我々は「ハムレット」や「お気に召すまま」を小説のように楽んでいます。多くの人は和訳本や映画、漫画やアニメで触れたことでしょう。これらの「手段」ってインターフェイスだと思うんですね。そりゃそうですよ、モダンイングリッシュで書かれた書籍が日本で売れるかといえば、絶対に売れません。ハリー・ポッターだって原書はほぼ売れません。なぜなら「日本語で書かれているシェイクスピア作品やハリー・ポッター」があるからです。現代日本語という「インターフェイス」を持っているわけですね。あるいは例えば「ハムレット」という映画がありましたね。あれもインターフェイスです。
私たちはこうしてPCやスマホを使っていますが、ほとんど全員、その中でどんな言語がどんな風に動いているか、それを書いた人はどんな事を考えていたのかなんてことは考えません。私のようなプログラマは本能的に感じちゃいますけど、一般的にはないですよね。小説って、そういうものじゃないかなと。こう書くと「それはただの漫画(アニメ・映画)原作だ!」と言われてしまいますが、それで良いのでは。結果として原作になることも少なくないわけですから。
「文字離れ」が進んでいると言われていますが、実際はそんなことはありません(※紙媒体離れは進んでるかもしれませんが) また、「物語」は常に求められています。たとえ世界大戦のさなかでも映画はあったわけですから、「物語」の需要が枯れる事はありません。そしてその物語を「最もコストを安く」生産できるのが「小説」というメディアなわけです。「コスト安い」というと抵抗があるかもしれませんが、「最強の金銭的・時間的な生産性」を持つ物語の製造手段が小説なわけです。それは昔から変わっていない。識字率とかまぁ色々あるし、社会的背景(小説が卑賤な文化であるとされた、など)もあるし。しかしそれにしても、共通しているのは「超低コストで物語を作れる」ということです。羊皮紙とか石版とかになるとわからんけど、印刷技術が出てきて以後はほぼ確実。そして「小説家になろう」や「カクヨム」といった小説を「超手軽に発表できるメディア」が出てきたことでそれは加速。潜在的小説家(候補)が顕在的小説家(候補)に変わったという転換点がこの十年くらいでおきました。
で、タイトルに戻るんですが。変わってないと思うんですよね。現在では新しい手法のように思われてることも、30年前には使い古されていた手段だったりしますよね。キャラクターのスキル制、レベル制なんて「フォーチュンクエスト」でとっくにやられてますし。ゲームになるとドラクエ、もっと遡ればD&D(など)でとっくにそういう「物語」は出来ているんです。今はその拡大再生産を行っているだけなんじゃないかなって気がするんですよ。すごい長い、何十年というスパンで。
そもそもエログロラブコメなんて源氏物語の頃からあるわけですし、紫式部や清少納言の頃からの技法の再生産・当世風のアレンジ、そういうもので出来てると思うわけです私は。神話の類にしたって、日本語の文脈に限定するなら、「日本書紀」や「古事記」が大概の日本人のベースコンテクストになっているわけです、一度も読んだことがない人も多いかも知れませんが、文化的コンテクストというのはそういうものです。外国の文化の影響を受けて変化はするにしても、外国人だって人間ですから(当然)、精神性にはそんなに違いはない。キリスト教とかそういう宗教的コンテクストが入ってきたりして「目新しい」ものが目につくようにはなりました。確かに。「スキル」とか「レベル」とか外国語が入ってきたりはしています。が、「技術」「練度」という日本語に置き換えればあら不思議。戦時中くらいにまでは遡れますよね。撃墜数に応じて「猛者」と呼ばれるようになる戦闘機乗りの話なんて、完全にレベル制ですよね。
つまり何だっていうと、「自分の作品が新しい」と思って書いてる人って、実は単に「四角い車輪」を発明しているだけじゃないかと思うわけです。逆に誰かが書いた作品を指して「目新しくない」とか「流行に乗ってダサい」とか言ってる人もまた同様です。知識不足なだけじゃないかと。近視眼的な目線と情報しか持っていないのではないかと思う次第です。
前回の記事の踏襲みたいになりますが、そういった「過去に使われた技術」を上手に「テンプレ化」出来た人が勝利するんじゃないかと思うんですね。要は「自分の作品の起源」に目を向けること。「起源の起源」を探る事。コレを繰り返していくことで、見えてくるものが出てくるのではないかと。要は「THE ORIGIN」を探るというわけですね。それと同時に、コンセプトをしっかり仕上げて、どの文脈(コンテクスト)を持ってる人をターゲットにするのかを考える。
極論すると、ドラクエで育ったかFFで育ったか、あるいはスクエニになってから物心ついたかで、求めてる物語の仕組みや方向って全然バラバラだと思うんです。小説にしても、「銀河英雄伝説」が好きで架空戦記系・SF系を主に嗜んだ人と、「スレイヤーズ」が好きで、ああいうドタバタコメディ的ファンタジー(異論は認める)を主に追っていた人では、持ってるコンテクストがまるで違う。どっちの人も満足させられるものって何だろうって考えると……なんかどっちつかずになりませんか。あ、例えが古いとは言わせませんよ! 前者は再アニメ化されましたし、後者は続刊出たじゃないですか!
ほか、例えばリアル世界での事情にしても「彼女いる(いた)人」と「彼女いたことがない人」では恋愛観・女性観が違いますし、それぞれに属している人でも「家族関係」「友人関係」などのファクターによって変わってきます。全員を満足させられる作品を作るのはほぼ不可能です。それに近いことができるのがほんの一握りの(ベストセラー)作家ということになります。
その差って何かと考えると「コンテクストの与え方」じゃないかなと。いかに深く素早くコンテクストをその読者の中に複写するか。それができる人がベストセラーになれる……んじゃないかな? なったことないからわからんけど。
多くの「物語を求める人たち」に、「(物語を楽しむための)コンテクスト」を与えるために必要なものが「インターフェイス」、ということになるのではないかなと思う次第です。「インターフェイス」というのは「コンテクストを取り囲む全て」を指します。なので、映像や漫画もそうですが、広告や予告なんかも入ります。技術が云々は進化していないにしても、「文字にだけこだわる」のはもはやアナクロニズムだと、そういう時代になっているのではないかなと思うのです。
さて、今回の記事は参考になりましたでしょうか?
それでは良き執筆ライフを!
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