大切なことは言葉にならない

エッセイ

タイトルは米津玄師「海の幽霊」という歌の一部なんですが。本当にいい歌なのでぜひ聞いてみてください。

米津玄師 MV「海の幽霊」Spirits of the Sea

さて「虐殺器官(伊藤計劃)」なんかでも言及されたりしていますが、「言葉」「文脈」というのは支配的です。

 「言葉」っていうのは、脳内の言語野に仕込まれたロジックを経て出力される「感情表現」なんだと思うんですよ。感情表現ですから、人によって上手いも下手もある。ここでしばしば軋轢が生まれますが、そりゃそうです。発する能力(発話能力)、受ける能力(受容能力)、それぞれに個人差がありますから。だから本来、感情を表現するだけなら、泣いたり笑ったり怒鳴ったりすればいいんですよ。そのほうがストレートに伝わる。伝えるだけならね。

 怒鳴ったりなんだのというような簡易な手段があるのに、わざわざロジカルな経路を経由させて「言葉」にしようとするというのはなぜか。そのロジカルな経路が破綻してしまうくらいに強烈な「感情」に支配されると、言葉を形成するためのロジック部分がうまく組み合わさらなくなって、わけわからないことを言ってしまったり、あるいは言葉にならなくなったりする。そう分かっていたとしても、そうなってしまったとしても、それでもそれをなんとか言葉にしようとするのは、「共感」してほしいからだと思うんですよね。

言葉を捨てちゃだめだよ」、というのは、セイレネス・ロンドに出てくる(作者的に)印象的なセリフなわけですが、人は「共感」あるいは「共苦」を得るために「言葉」を使う。あるいは「感情」「苦しみ」を相手と分かち合いたいから「言葉」を使う、そんな風に思うわけなんですよね。それを捨てたらもう理解し合うことは出来ない。どんな綺麗事を言おうが、言葉を介する事なしに相互理解というのは出来ないわけです。そしてその相互理解を得るために必要な背景知識(バックグラウンド全般)こそが、「文脈(コンテクスト)」です。

 私ら文章書きは、ある種「言葉」に対して日々最も真摯に向き合っている種族であって、であるからこそ、「大切なこと」をどうにも言葉にしきれなくて苦悩しています。人間の持つ完璧な言葉なんて「愛してる」くらいじゃないですか? 形容詞を一つも使わないシンプルな表現、そこに「言葉」の真髄があるよなと思いつつも、それだけでは文章として成立しないのも事実。愛してる~だけでは歌詞すら成立しませんからね。だから、我々は形容詞や形容動詞や副詞をこねくりまわしてある種の妥協点(最適解とも言う)を探している。文章、あるいは文脈(コンテクスト)として成立するラインをですね。

 という感じで「コンテクスト」の話をしたいと思います、軽く。

 我々は日常生活というものをコンテクストの中で送っている。コンテクスト=文脈です、文字通りに。「言葉」によって我々は規定し、規定され、ともすれば(重たい話ですが)生死すら決められます。ただ、その「言葉」というのは「社会的コンテクストの中での言葉」にすぎず、「感情表現の一つとして共感共苦を得るための技法=言葉ではない。ここんところが面倒くさいところですね。ハイコンテクスト、ローコンテクストという表現は、まさにこの「社会的コンテクスト」を現しています。ゼロイチで分けると、ですね。

 そしてまた更に面倒くさいことに、「小説」という媒体は、その両方の意味のコンテクストに乗っかった「言葉」を使います。 「社会的コンテクスト」と「感情的コンテクスト」 の両方を巧妙に織り交ぜます。その両面を使いこなすことではじめて「物語」ができます。ちなみに社会的コンテクストに偏ると論文や実用書みたいになりますし、感情的コンテクストに偏ると歌詞のようになりますね。

 そして「社会的コンテクスト」を書くのは難しくない。なぜならどこまでも客観的に書けるから。情報を集めて、その情報を自分の中で完全に理解できてさえいれば、100人いれば100人に書けるでしょう。大学の卒業論文だって「社会的コンテクスト」ですから、つまり二十歳くらいになればだいたいの人の国語力で書けるんですね。ウマヘタはありますけど。

 その一方で「感情的コンテクスト」を書くのはもはや特殊スキルであると言っても良いでしょう。文章に偏差値があるとして偏差値70~130くらいの「ほぼ全員が入るレベル」の中の人では「感情的コンテクスト」は書けない。私はそう思っています。「面白かった」「楽しかった」「つまんなかった」「好き」「嫌い」「嬉しい」「ムカつく」「笑える」「ウケる」「しらける」「美味しかった」「不味かった」「やったー!」「ちくしょー!」「だるぃ」「学校(会社)行きたくねぇ」……普段使いの感情表現というのはだいたいこんなもんでしょうか。実際問題、その程度の表現力では小説は書けません。小学生の作文か、ってなっちゃいます(※いや、そういうレベルのノベルがあるのは事実のようですが、深くはつっこみません)。実際のところ、多くの人が文章を書くと、自分の中の「感情」をどう表現したらいいかわからなくて筆が止まります。これを語彙力の差と言ったりもします。語彙力云々の話はこちらでもしていますが、やはり文章書きならある程度は押さえておきたいものです。

 「感情」という無意識の発露のようなものを「言葉」にするというのは、本当に難しいのです。そしてそれを使って「共感(共苦)してもらおう」というのは更に難しい。「言葉」を届ける相手の中にも同様の「感情的コンテクスト」がなければならないからです。小説を書く作業というのは、自分自身の「感情」を「言葉」に変換するのと同時に、相手(読者)の中に、作者の持つ「コンテクスト」を複写するということです。

 共通ライブラリであるテンプレなんかをうまく使うと、この「コンテクスト」の共有が非常に簡単になります。「中世ヨーロッパ風」といえば、「なんとなくそれっぽいもの」を思い浮かべるでしょう? そういうことです。「テンプレ」にも是非はありますが、要は「どう使うか」なんですよ。

 テンプレを使わないということは、作者は読者に対して、「1から10まで」作者の持つコンテクストをコピーしなければならないということです。純朴に朴訥に1から10まで伝えようとしたところで、2~3くらいまででほとんどの読者は逃げてしまいます。ですから、いかにして効率よく「社会的」「感情的」コンテクストを与える(複写する)のかが肝になります。スピーディに、少ない文字数でコンテクストを与えて共有し、その限られた範囲で「作中に出てくる感情」を「読者の脳内で再現させる」ことが大切なわけです。難しいですね。

 何が難しいかって、「読者の中に既にあるコンテクスト」が、読者によって違うということです。これは当たり前なんですが、だから難しい。提供するコンテクストを端折ると、持ってるコンテクストの少ない読者は置いてきぼりになる。他方、提供するコンテクストが多すぎると、持ってるコンテクストの多い読者には非常にウザい文章になる。あるいは「読者の中に既にあるコンテクスト(≒その人の常識や良識)」と、「作中のコンテクスト」がぶつかってしまう可能性だって少なくはない。こうなってしまうと「合わない」で一刀両断です。

 そこで大事になってくるのが「コンセプト」。「誰に対して表現するか」ですね。「読者のコンテクストの保有量」をある程度予測して、そこをめがけて削ったり増やしたりした「作者のコンテクスト」を提供する。コレがハマれば強いんだろうなと思います。わかっちゃいるんですが、実際のところどうなのかは、成功者ではない私にはわかりませんが、論理的にはこうだ……ということです。

 コンセプトってのは何も文章によるものだけではなくて、服や化粧品や家具や……とにかくありとあらゆる「もの」についてまわる概念です。コンセプトもなく「なんとなーく」やっていると、結局誰にも刺さらない。当然広まることもありません。口コミナシってことですね。極論すれば、誰か一人にでも刺されば希望はあるんですよ。ただ、「なんとなく」ではまず確実に誰にも刺さらない。だからいろんな人が言っていますが、小説の場合は「誰が読む・誰が手に取る」をまず考えろってことです。誰かに刺さればそこから評価が広がっていくかも知れません。が、刺さらなければ永遠にその機会はありません。

 おかしいな、私は考えてるんだけどな! とかいうことも現実に起きますが、「考えなければ刺さらない=考えれば刺さる」ではないということです。だから、考え続けなければなりませんね。「失敗はその方法ではうまくいかないことが分かったという成功だ」とはエジソンの言葉ですが、失敗を重ねていってどこかで正解に辿り着く、のかもしれません。ハマり続ける可能性もなきにしもですが。

 何が言いたいかというと、コンセプトにおけるターゲットというのは、「文脈(コンテクスト)」を見て決めろということです。社会的性差だってあるでしょうし、年齢的なものもあるでしょうし、理系文系だってあるでしょうし。とにかくその人が歩いてきた人生や、取り巻く環境、そういうものは全て文脈です。その文脈の延長上に「欲求」があります。「欲求」にも善悪甲乙様々ありますが、とにかくそういったものを満たせるものを作るのが大事かなと。ぶっちゃけ「全年齢・全性別・全社会的属性」に向けた作品なんて成立しません。忖度に満ちたわけのわからないものになるのは間違いないのです。

 なので、コンセプトは明確にしたほうが良いのです。そうすることで、読者に「どこまで文脈を与えれば良いのか」が明確になるからです。当然ながら「与える」わけですから、自分の中に確固たる文脈が成立していなければなりません。信念や理解というものですね。たとえ「テンプレ」を使うとしても、その「テンプレ」の背景が明確にイメージ出来ていなければ、薄っぺらい引用図書になってしまうわけです。やるならしっかり理解して、その上で「コンテクストを複写するための最適解として」テンプレ利用をしたいところですね。

 要は作者は作品を完全に理解してなきゃいけないっていうことです。コンテクストというのはそういうものです。

 さて、今回の記事は参考になりましたでしょうか?

 それでは良き執筆ライフを!

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