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頑張る方向を間違えても良い。頑張らないよりは絶対に良い。

エッセイ

※ツイッターでだらだらっと書いた文章があるのですが、それを手直ししました。

頑張って失敗した人間を笑うような人間にはなるな。
失敗した人間のためにも、それと同じ失敗はするな。
そのためには、頑張る人間をしっかり見て、しっかり応援しろ。その時の声援と評価は、必ず自分に返ってくる。

https://twitter.com/estclusterx/status/1198446925210537985

まず、こういうことを書いたんですよ。頑張る人を見ている人は、自ずと頑張るようになるし、いざ自分が頑張ってる時には、過去に自分が誰かを応援した経験があるから、自らのその声に励まされるんだ、という意味です。

頑張ったからと言って報われないことも多い……とよくいうけど、私は違うんじゃないかと思う。「頑張れたのなら」、頑張った当人は報われていると思う。がんばれたのなら。でも、「頑張っている人」の多くは、第三者による承認や権威付け(オーソライズ)を求めるから、そしてそれを「頑張った証」だとおもっているから「目標」がおかしくなり、結果として失敗体験だけが積み上がる。成功するのは何千分の1。圧倒的に失敗体験だけが積み上がるようにできているのだ。そしてその上、社会に於いて「失敗は嗤われる」ようにできている。

例えば私は「全くの無冠(受賞歴ゼロ)」の「キャリア32年」という小説わなびに於いては最底辺だ。実績(頑張りの証とか、オーソリティによる承認)がないことをひたすら辛いと思ってきた。だけども「待てよ?」と最近になってようやく腑に落ちた――私のこの「32年無冠」であることを強みにできるということに。この期間の頑張りは、誰にも真似できない、いわば唯一無二のものだ。

足掛け32年、ずっと小説で食べていきたいと思って(病気療養中以外)ずっと小説を作ってきた。つまり、コレ自体が実績じゃないか? と、思えてきたわけだ。負け惜しみに聞こえるかもしれないけど、今は不思議と「書籍化したい!(頑張りの証=実績が欲しい!)」という感覚はなくて。 頑張り続けてればなるようになるんじゃない? くらいの気持ち。実績がなければ「説得力がない」と思っていたんだけど、最近になって「それも違う」と思うことが増えてきた。人は実績でもちろん下駄を履くが、下駄がなくても話せるよな? ということに気がついた。勿論、どんな台に多頭が、そこに下駄を履いた人が乗れば私より高くなる。でも、私が黙っていなきゃならない道理もない。ハッとそこに至ったわけだ。

それに私は32年目の受験生のようなものだ。未だ合格(受賞)すらしていない。だけど、私がもがいてあがいてきた期間は、 3年や5年あるいは10年ですらないのだ。 30年。18歳から書き始めていたとしたら48歳になる。 それで、はたして今書き始めた18歳が48歳になるまで「公には一切評価されることもなく」「小説を書き続けられる」だろうか? 難しいと思う。 だが、私は未だ記録更新中。決して抜かれない。 これは一種のプライドになるのではないだろうか?

だがしかし、この現状のままでは「努力は報われる」が対外的に示せない。「努力は(出版社には認められないかもしれないが)、必ず多くの評価を得る」という仕組みを作らなくちゃならない。「創作」に関する世界的・客観的な評価制度。そういうものが作られたっていいし、そこにAIぶっこんでもいい。 使えるものは何でもつかうべきだ。

勿論、私の「努力」も報われたい。が、より多くの「努力してる人」のその成果を「より報われる」ような仕組みを創れば、必然私の「努力」もそこに包括されるのでは? と、そういうことを思うのだ。 努力できる人には努力して欲しいし貴重なそういう人をこそ評価する仕組みが必要だ。ましてや笑う人間は不必要だ。

努力する人、頑張る人の大敵は「何もしないくせに失敗を笑う人間」。「人の成功をただ享受し、失敗したものにマウントを取る人間。現状維持という一番楽な生き方をし、世界を変えようと努力する人を嘲笑う、失敗を上から目線でこき下ろす、そういう人間。残念ながら、私たちには彼らを消すことはできない。 昔から人間の進歩や進化の足かせになってきたのは、この手の人間たちである。現状維持信奉者と言っても良い。つまりは、退化や劣化に気付け無い魯鈍で卑陋な精神の持ち主たちだ。だが、彼らを排除することは不可能だ。

だからこそ、「そういう手合いの人間」に受けた傷よりも多くの恩恵/承認/報酬を、「努力/頑張る人」に提供できるような仕組みが早急に必要なのだ。 くだらない人間たちの嘲笑ごときで、クリエイターを減らしてはいけない。今まさにそういう被害にあって筆を追ってしまうクリエイターがいる。少なからずトラウマになってしまう人もいる。だからこそ一刻も早く、「努力するクリエイター」を社会の「勝ち組」にしなくちゃならない。

勿論「頑張る/努力する人」というのが大前提だ。「努力をしない人」というのは界隈の質を下げてしまう。だけど、たとえそういう人であったとしても、「努力すればより報われる」ことがはっきりしていれば、質は勝手に向上していくんじゃないかと思う。 今は「個」の時代ではなくて「群」の時代。全てが繋がっているから、案外単純化するのでは。今が「個人主義の時代」と思っている人は、もう少し視野を広く持ったほうが良い。口では「個人主義」と言いつつ 、ネットのそれぞれの社会で出来た規範に従って相互に監視しあい、影響しあう社会なのだ。だから、「群体の時代」なのだ。

もっといえば「努力の結果の失敗を笑う」ことが「恥ずかしい行いである」という認識が広まればいい。そのためには「努力は、失敗したって報われる」という社会構造の大きな変革が必要になる。けど、昨今の各種運動を見ても、きっかけさえあれば一瞬でパラダイムシフトは起きる気がする。努力は大切だと義務教育でこれほど教えておいて、未だに定着しないことには何か理由があるはずだ。

「失敗したって良い。本気の失敗には意味がある
  分かる人にはわかっている。
 それを笑うやつは恥ずかしいやつだ」

社会の半分がこの考えが持てるようになるだけで、創作の世界のみならずあらゆる生活への価値観は変わるだろう。

「失敗が笑われる」のには理由がある。現代(日本)社会では、みな「失敗しないようにする」ことに意識を向けすぎているから「失敗」が目立ってしまう。目立つということは特異に映ってしまうということだ。そして人間というのは「普通と違うもの」に対してより上位に立とうとする救いがたい性質がある

幸いにして、日本国に於いては「失敗」したって簡単には死にはしない。なのに「失敗を恐れ、失敗しないようにしか動かず、他人の失敗を笑う」。 その一方で、「成功者」の「成功」にばかり目をむける。社会は「成功者」の、それも「成功の一面」しか見ない。「失敗」を映すこともあるが、それは「成功」の引き立て役でしかない。さも、成功者の「成功」を見れば自分も成功者になれるかのごとく、社会は、いや、メディアは人々の意識を誘導する。

この日本国という社会は、「失敗した人」を嘲弄して、自分を上の立場におきたがる社会でもある。 そして程よいサンドバッグを見つけると、死ぬまで殴り続ける社会である。そんな狂気の社会では創造者は生まれない。技術革新も社会変革も起こり得ない。永遠に失敗は失敗のまま、だ。 そんなバカな話があって良いはずがない、と、私は思っている。

「成功」の影には無数の「失敗」がある。「成功」が難しいのは「失敗して嗤われる」ことで、挑戦者の精神が無駄に消耗させられてしまうからだ。「失敗=ゲームオーバー」だと信じ込まされているからだ。だから「成功者」には強いメンタルが要求されている。が、私はこれは間違えていると思う。数少ない成功者の影で、無数の「普通メンタルの成功者予備軍」が潰されてきたと考えている。勿体無い。実に勿体無いのだ。

勿体無いのだ、「失敗を笑う」社会は。仕組みは。組織は。集団は。彼らはあまつさえ成功の見込みの低い努力」を続けている人さえ嘲弄の対象にする。その責は誰も負わない。その努力が成功しようが失敗しようが関係ない。その時のその「損失可能性」だけを見て笑い、上手く行った時にはそれまでの攻撃を忘れてしれっと労い、失敗した時には更に嗤う。そんな中で「成功」が生まれるはずがない。世の中の大多数を占める「普通かそれ以下のメンタル」の人たちが逼塞しないはずがない。だが彼ら「他人の失敗を嗤う」人々を消し去ることはできない。人間とは本然そういうものだからだ。であるなら、それ以上に誰かが、あるいは、何かが報いねばならない。

努力した人に、頑張る人に報いる。 ごく普通で常識化しておいて欲しい概念だが、未だ概念で終わっている。私はこの仕組みを変えたい。 頑張った人間は、たとえ方向を間違えていようがなんだろうが、「何もしてない人間よりずっと素晴らしい」ということを社会的に認めて行けなきゃならない。

人にはいろんな個性、知性、興味、人格、思考、そういうものがある。いわば多様性(ダイバーシティ)だ。彼らはその中で努力している。ゲームのステータスとは違う、もっと細分化した能力をみんな持っている。その中でもがいてあがいて頑張っている人は少なくない。それを正しく認知し、「失敗や努力を嗤う人間」から守れる仕組みが必要だ。努力や頑張りが、「お前すごいな!」と誰もが遠慮(というのも変な表現だけど)なく言えて、素直に認められる仕組み。そして、努力を笑う人間に「ばーか」と誰もが言えるような仕組みに変われば、絶対生きやすくなる。

そういう社会を「望みます」じゃなくて、そういう社会を「作ります」と、私は言いたいし、そのために動きたい。そのために私に何ができるか考えて、今いろいろと裏側で動いているところ。もう少し時間はかかるけど、技術革新を利用してもっとうまいことやれるように頑張りたい。

せっかく「制度」を活用すれば「少なくとも死なない」日本国にいるのだから、であればなお、「日々を生きる」じゃなくて「日々をより良く生きる」にならなきゃならない。 そのためにまず一番に変えるべきは社会の精神性なんだよ。そしてそれを変えるために必要なものは、利害なんだ。差し引き+の。

そのために何ができるか。私は見えないところで頑張っている所。成果が出たら褒めてくれ。

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