と、いうわけで、今回は「小説を書く時に最も必要なもの」について書きます。
私はですね、長編と言われる10万文字の作品をだいたい2週間で1本書きます。インターバル考えて、「2ヶ月で3本は書ける」と公言しています。まぁ、質については知りません。私自身の評価するところじゃないので。ただ、「10.5万文字で完結させよう」と計画すると、だいたい10.4~10.6万文字で完結します。特に狙わなくても、最初に設定した文字数くらいでちゃんと終わります。それを最近サボ……じゃない、ブログと徒然力入れまくってるので小説は置いてけぼりになってますが(だって2つ合わせて8000文字くらい書いてるんだよ、ほとんど毎日!)、やる気になれば2週間に一本ペースで書く自信と実績があります。
執筆速度=スピード?
そんな私ですから、「スピード」には自信があります。
今日の徒然(848.)にも書いていますが、「執筆のスピード」=「タイピング速度」では、ありません。タイピング速度なんて、1秒3~4打あれば必要十分。余裕持って5~6あればむしろオーバースペックです。1時間で3000~4000文字打てれば十分だと思いますし、それ以上になると自分のスピードに自分でついていけなくなります。私は1時間あれば、計算上(日本語+変換ありで)7000文字くらいは打てちゃうんですが、自称「時速10枚(4000文字)の男」なので、その半分くらいしか「タイピング」そのものは使ってないということになります。
なれば「スピード(執筆速度)」とはなんぞや?
それはずばり、「レンダリング(マシンを作る)能力」です。これも前述の徒然に書いていたりしますが、「小説」というのは「物語」であって、「物語」というのは「世界」です。ショートコントみたいな作品であれば、登場人物と「現代社会」という共通のスキーマで描くことができるのでちょっと楽できますが、基本的には「小説」=「物語」=「世界」です。つまり、「小説は世界を描写しなければならない」という話です。あ、これ一式の理論なので、別に出典とかないです。ただ好きに書いてるだけなのであしからず。
世界の描写?
「小説ではなぜ世界を描写しなければならないのか?」
という疑問を呈した方は、よく訓練された当ブログの読者でしょう。それはですね、「世界」というものに対して、「人(=読者)」はのめり込むからなのです。舞台設定(つまり時代背景、宗教、政治、経済、服飾、食料……etc.)がしっかりしていない「世界」には没入できないのです。「描写されていないことに対するノイズ」にやられる、あるいは「描写がちぐはぐなことによる混乱」にやられる、「描写が濃すぎて逆に印象に残らない」ことに注意を逸らされる……などなど、とにかく「世界」をきっちり書けないと、まずは読者に「体験」させられないのです。
VRモノを参考に
考えてもみてください。
「ソードアートオンライン(以下、SAO)」をご存知でしょうか。もしラノベ作家、あるいはアニメ作家になりたいという方でチェックされてない方はぜひご一読を。小説よりアニメのほうが話しやすいのでアニメをちょっと意識して下さい。
あれはVR(仮想現実)を舞台にした物語なんですね。超リアルな感じの。もし、あの世界が「レゴブロック」で出来ていたらどうでしょう。石畳や樹木などが、「明らかにプラスティックの作り物」で構成されていたら? あ、マインクラフトスキーは黙っていて下さい。とにかくも、あの世界が「リアル」だからこそ、読者あるいは視聴者は「SAOって面白いな!」と思ったわけです。世界の描写が絶妙に「リアル」なのです。ここで大事なのは「絶妙に」という部分。過剰すぎず、簡素すぎず。違和感を与えない程度に絶妙に「非リアル」ということでもあります。そういう世界であるから、キリトやアスナは没入して、視聴者・読者もまた、そうである「世界」に没入したわけです。そうでなければ、VR(仮想現実)もののWEB小説が爆発的に増えたりしてないですよね。(最近は落ち着いたかな?)
キャラクターは「世界」の上に立っている
しばしば「小説はキャラクターが立っていれば成り立つ」という言説を耳にするんですが、それは間違えていると私は思うのです。いえ、正確にいえば「言葉足らず」じゃないかなって思うんですよ。より正確に言うならば「小説はキャラクターが立っていれば成り立つ。そしてキャラクターを鮮烈に成り立たせるためには世界がしっかり出来ていなければならない」ということになるのではないかと。
だって考えてもみてください。読者は最初のページに触れた瞬間から、「その世界」に入ろうとするんですよ。文庫本で考えれば最初の1/2ページくらいで。400文字くらいでしょうか。「つかみは大切」「最初の三行が勝負」と先人たちが口を酸っぱくして言っているのは、おそらくそういう理由でしょう。「その世界に没入できるか」を読者は測ってるんですね。ここには様々な技法があるのですが、それは「小説の書き方」に関する書籍類を見てもらうとして、小説を読む=「キャラがどんなのかを知りたい」、のではなくて、「その世界がどうなるのかを知りたい」という、作者の多くが思っているより遥かに多くの情報量を読者は求めているわけです。「主人公かっこいいでしょ!」とか「戦闘描写すごいでしょ!」とかそういうことじゃない。「世界」が描けているかどうかを読者はちゃんと見ています。
レンダリング
私はこの「読者が見る=読者の脳内で小説の世界を構成する」という作業をレンダリングと呼ぶことにします。レンダリングの意味? ググれ。目の前の端末は何だという話です。ググりましょう、ググりましょう。文明の利器は使い倒すのが生きる上でオトクです。
とにかく「ある情報(ここで言えば小説を構成する文字列)から三次元~四次元的に世界を構築する作業」をレンダリングと呼ぶことにします。文字情報から三次元の世界を、つまり、文字情報から立体造形物を作る作業を、読者さんは行っているのです。すごい作業なんです。だから、「読書」の得意不得意が存在するんですね。「レンダリング能力の差=読書力の差」だと言っても差し支えないと思います。学校教育(小学校~大学まで)で何を学ぶかという話にまで延伸しますが、そういった教育機関で行っているのは「レンダリング能力の向上」と「レンダリング可能な範囲・分野の拡大」と「レンダリングを行う上で便利なライブラリの獲得」ということなのです。あ、私、一応教員免許もってますよ。中学と高校の一種免許(英語)。大学で取得したきり使ってないけど。勉強をしているのではなくて、「ある情報から全体像を想像する能力を養うために」勉強しているのです。勉強は目的じゃなくて手段なんですね。これは強く言っておきたい。勉強が目的化してしまった人の多くは「勉強は役にたたない」といいますが、本当に勉強ができた人はそうは思わないのです。
没入感を与えるレンダリング
ちょっと脱線しましたが、閑話休題。
「世界をレンダリングするために必要な情報」を「全ての読者が持っている」と考えるのはおかしいですよね。現代ドラマでさえいろいろな世界観描写が必要なのに、まして「なんとなく中世」とか「ぼんやり未来」とか見せられたって、読者はどういう「世界」をレンダリングしたら良いのかわかりませんよ。だから結局、場面や人物にフォーカスがあたったり離れたりするタイミングで「あれ? 私のレンダリングした世界って合ってる?」という余計な思考リソースを使わされます。これを人は「読みにくい」と表現したり感じたりします。逆に「レンダリング」を意識させない作品は「没入感がすごい」ということなんですね。
じゃぁ、「レンダリング」を意識させない描写をすればいい。っていうことですよね。と言っても、それが簡単にできるなら誰でも小説家(いわゆるプロ)になれちゃいます。実際の所、「小説家になろう」や「カクヨム」その他投稿サイトにはそのレベルの人達がうじゃうじゃいるわけですが。ともかくそういう人たちを総称して「プロ」と呼ぶことにしましょうか。
小説に乗せるべきもの
レンダリングをするために必要なものは「小説に於ける描写」と「レンダリングマシン」です。プログラムやってる人には「コンパイラ」といったほうが通じるかもしれません。ここではレンダリングマシンで統一しますね。
明治大正昭和中期までの多くの文学のレンダリングできる「レンダリングマシン」を持っているのは一部の教養のある人だけでした。なので「文学」は「高尚」なものだったのです。「高尚」っていうのは、つまり、「限定された人にだけできる物事」という意味ですから、まさに「文学を楽しめる人=高尚な知性と教養の持ち主」だったのです。だから今の人達にとっては難しい物が多いし、今でも小説は「難しくあるべき」と思っている人が一定数いるのは事実です。小説は今や「高尚な教養」ではなく「大衆の娯楽」なので、時代錯誤も甚だしいのですが。
小説が高尚な文学から大衆の娯楽に変わった理由
日本に於いて小説が大衆の物になったのは、私の感覚では「夏目漱石」の功績なのですが(あの時代の「ライトノベル作家」と言っても良いと思う)、じゃぁ、なぜ「高尚なもの」が「大衆のもの」になったのかが大事な話になります。
それはですね、「小説にレンダリングマシンを同梱した」からだと私は思うわけです。それまで「読者のレンダリングマシン」に依存していた「(高尚な)文学」。それまで「文学様」を理解出来ない=教養がない(高性能なレンダリングマシンを持っていない)人、というふうに思われていたわけです。私に言わせりゃ、「源氏物語」の頃からライトノベルは存在しているのですが、それでも当時の日本国民の殆どは源氏物語を理解できる「レンダリングマシン」を持っていませんでした。識字率なんていうのは国家国民の「レンダリングマシン」の性能を示す一番最初の数値ですね。文字が読めなければ文字から世界を描画(レンダリング)することなんてできませんから。
「読者が誰であろうとも、同じ世界を頭の中に描けるようにした」――それが文学の大衆化の始まりだと私は思っています。国文学専門の人からは異論も出ると思いますが。つまり、小説にレンダリングマシンを搭載したのです。このマシンの搭載により、子どもから大人まで、同じ一冊の本の文字列情報から、ある程度の共通世界を描けるようになったわけです。もちろん、子どもと大人、大人と大人間で、情報は違います。それは先にも述べた「ライブラリ」「スキーマ」の差になります。「ライブラリ」は「基礎知識」、「スキーマ」は「背景知識」と思ってもらえばよいのですが、とにかく「読者が持っている情報」によって、世界の解像度が上がっていくようになっています。解像度は「読書力の差=読者それぞれのレンダリングマシンの性能差」によって違いますが、基礎的な情報=世界に没入するために必要な最低限の情報のレンダリングは、小説の文字列が行ってくれるようになっているのです。
尖った小説
尖った小説というのは「必要なライブラリやスキーマを持ってる人には『よりたまらない』」小説であって、「ライブラリやスキーマを持ってない人には『楽しめない』」ものではありません。ここ大事ですよ。後者だと今の時代では「自称高尚文学」になってしまいます。読者のレンダリング能力に全て依存する人は、生まれてくる時代が100年遅かったということです(近代文学好きなので100年前の人達をディスってるわけじゃないよ) 逆に言えば、「読者に甘えた小説」なんですね、今の時代の「自称・尖った小説」というのは。読者が「これめっちゃ尖ってるわ」ていうのはアリですが、そういう「レンダリングマシンを実装しなかった」作者が、その作品を「尖った小説」といって誇っていてはダメです。 (エロとかグロとかホラーはまぁ、センシティヴな問題なのでおいておくとして)どんな人が読んでも没入感を得られない作品はダメだということです。繰り返しますが「尖った小説」というのは、「好きな人には『より、たまらない』」作品のことです。「一部の人しか楽しめない」作品は、言ってしまえば現代的ではないということです。
ということは、ですよ。今の小説を書く上で必要なことは、「文を書いて必要情報を描写する」だけではなくて、「どの読者でも使うことのできる(あるいは使用する対象を明確に決めた)レンダリングマシンを実装すること」も含まれるのです。しかもそれを「同じ文字列(=文字の集まり)」で「同時に」やらなければならないのです。しかも、紙媒体であればせいぜい1ページの約半分、400文字程度でそれをやらなければ「立ち読みで終了」してしまうのです。WEB小説でも最初の1画面が限界でしょう。「1ページ」じゃなくて「1画面」です。「世界に没入できない作品」では読者は次のページをクリックするどころか、スクロールさえしません。ですから、最初のワンショットでレンダリングマシンを読者の頭にインストールする必要があるのです。「世界を描写するに十分」で、かつ、「読者自身が読者自身の描いた世界に疑問を持たない情報量と正確性を保証する」……という高度に汎用的なレンダリングマシンを。
見せてもらおうか、レンダリングマシンの性能とやらを!
さて、ここで問題になるのが、そのレンダリングマシンの性能。
作者が実装するレンダリングマシンの性能は、作者の「文章力」に比例する! のです。ていうか、文章力=小説本文にどういうレンダリングマシンを実装できるか、と言ってもいいかもしれない。
解像度
レンダリングマシンで描画(レンダリング)された世界には『解像度』というものがあります。実はこれ、低かったらマインクラフトとかレゴみたいな世界になるし、その一方で高すぎてもダメなんです。が、「レゴ」には「映画」があります。これがかなり面白くて、私も子どもも大好きです。不思議ですね。世界の再現性という意味での解像度低いですよね。また、うちの長男はマインクラフト大好きです。ヒカキン動画を見ながらせっせと色々やってます。おかしいですね。解像度低いですよね。反対に高すぎてはダメ……わかりやすく言えば「気が散る」世界です。「すごいのはわかるんだけど、すごいことしか印象に残らなかった」映画とか小説とか、皆さん一つや二つは思い当たるはずです。
まず「解像度が高すぎてはダメ」な方から考えてみましょう。これ「気が散る」って書きましたが、これなんです。「あまりに世界を超高解像度で描くレンダリングマシンを作品に実装してしまった」ために、読者とか視聴者が「処理しきれなくなった」ということなんですね。「いだてん」なんかに出てくるようなブラウン管のテレビに8Kの映像を映そうとしちゃったみたいなものです。映らないどころかテレビが壊れるかもしれませんね。この場合、「作者が用意した情報」は「読者・視聴者には過多」だということです。「俺のレンダリングマシンすごいだろ!」感と言ってもいいかもしれません。ある意味、読者・視聴者が持っているレンダリングマシンを侮った結果、そうなっている作品……ありますよね? そうなると映画なら「予算もキャストも特殊効果も色々すごかったけど、何の映画だったっけ?」みたいなことになるわけです。小説ならなおのこと。「文字数は多かったのに読後に誰かに説明しようにも説明できない作品」ができあがるだけです。
次に「解像度は低いけどなんかハマる」というもの。これ、ファミコンとかスーファミとかの世代の人ならすごく理解してもらえるところだと思うのですが、我々オールドタイプは「ドット絵」に萌えていたし、没入していたんです。そして今の子であるたとえばウチの子たちも、「レゴ・ザ・ムービー」とか「マインクラフト」大好き。もちろんその一方で、「カーズ」とか「トイ・ストーリー」とかも大好きです。これはなぜそうなるかと言うと「作者のレンダリングマシンはスーパーマシンだけど、敢えて不必要な部分をオミット(切り捨て)したレンダリングマシンを実装しているから」です。
「作者の解像度」が低い → 「文章に実装できるレンダリングマシンの解像度」が低い、というのは理解できると思います。この場合、「必要な部分が足りてない」レンダリングマシンが出来上がっています。ので、読者は「あれ? あれ?」となったり、読者それぞれのリソース(ライブラリ、スキーマ)を引っ張ってきて読まなければなりません。頭をフル回転させなきゃならない手軽には読めない作品ということです。ここで一応フォローしますが「小説を読む時」は、誰しも頭をフル回転させています。文字列から立体物しかも映像を描画(レンダリング)するんですから当然です。PCならグラフィックボードのファンがブンブン唸るくらいです。なんですが、「作者の能力不足を補完するために読者がリソースを使わなきゃならない」状態というのは、読者のCPU(脳)使用率100%を超える負荷を与えるということなんです。「読みにくい」「とっつきにくい」というのは、そういう状態を体験すると芽生えてしまいます。そうなったら、もう読みませんよね。
一方で「作者の解像度が高い」 → 「レンダリングマシンの解像度を下げて文章に実装する」と、おそろしく「没入感」が得られる作品になります。というのは、先に述べたとおり「不必要だと判断した部分を意識的にオミット」したものだからです。世界を描くに十分で、かつ、うるさくない。かつ「読者は任意で自分のリソースを使える」。そういう「世界と読者にジャストフィットするレンダリングマシン」を実装しているんです。これができる人が「すごい作家・文筆家」で、私もそれを目指しています。要は「必要な所を必要なだけ」実装できている人ということです。
ちょっと休憩
休憩がてら、多分、みなさん「あるある」となる例を挙げてみましょうか。
自分自身よくわかってない状態、つまり、しっかり吟味し終わってない世界を書く時って、いつもより時間かかりませんか? 日にちを開けると「あれ? ここまでどういう流れだっけ?」ってなりませんか?
作者自身がこれでは、読者にとってその作品は読むのが苦痛なものになります。作品に実装しているレンダリングマシンがガタガタな性能だからです。増改築を繰り返してワケわからなくなったプログラムのコードのことを『スパゲティコード』などと呼んだりしますが、レンダリングマシンのコード(←小説本文に仕込んでいるべき描写)がそういう状態になっていると、読者は「????」となってしまうわけです。整合性・辻褄が合わなくなっちゃう。場面場面で解像度が違ってしまう。やたらリアルなシーンと、やたらレゴっぽいシーンが混在している……そういう世界になってしまう。シュールですよね? 読者は「小説に実装されている世界(小説に実装されているレンダリングマシンの性能)に疑問を持った瞬間」から、読者自身のリソースを使い始めます。結果として、読者は無駄に疲れます。読むのをやめます。最終的には読者離れを誘発します。読者は正直ですし、読みたい作品は死ぬほどあるわけですから、「疲れる」ものを敢えては読みません。
逆に、自分の得意としているジャンル・知識が主体になっている場合や、その作品のためにしっかりと勉強した末に、世界を小説を書く時ってどうですか? めちゃくちゃ捗りませんか? 私で言えば言語学、プログラム、ネットワーク、宇宙関連なんかが該当しますが、いくらでも語れます。4K、場合によっては、8K以上の解像度で出力することも可能です。でも、それは「小説」内では見せないですよね? いきなり何十行も専門知識で埋め尽くす作家はまずいない。そういうのはだいたい「論文」と呼ばれますよね。
専門書を読み通した結果手に入れた知識も、小説の中では三行で片付けられてしまうかもしれない。でも、それは「作者の実力」の現れなんです。「意図してレンダリングマシンの性能や機能をオミット(切り捨て)している」ということなんです。でも、読者には伝わります。三行ででも、単語一つでも。「あ、この作者その筋の人だな」ってことが。逆にそこで「手に入れた知識を延々と描写してしまう」作者は、まだ未熟。高解像度過ぎるものを提供してしまってるということなんです。さりげなく難しいことを簡単に、といえば伝わりやすいでしょうか。「さりげなく」「簡単に」言うためには「深い理解=その分野における高い解像度」が必要なのです。文章でくどくどと語らなくても伝わる、それが、文章に実装されたレンダリングマシンの真骨頂ということです。
ジョセフ・コンラッドだったかな、彼の何かの作品で読んだ気がするのですが(20年以上前なのでおぼろげ)、「雄弁なる沈黙」のような撞着語法で形成された表現があります。「知っているけど書かない」結果起こるのは「読者の理解不足」ではなく、この「雄弁なる沈黙への理解」なのです。そこでさっきの「尖った云々」に戻ります。「雄弁なる沈黙」は、そのライブラリやスキーマを持ってない人には「なんかよくわからないけど、すごい! 言葉にできないけどなんか感動!」のような感じに伝わります。一方で、作者のその守備範囲と同じライブラリやスキーマを持っている人には「なるほど、そういうことか! この作者と話をしたら盛り上がれそうだ」くらいの感動を覚える作品になるわけです。知識のある人・ない人――どちらの人にも「ジャストフィット」するレンダリングマシンを同じ文章の中で提供しているわけです。そういうのが「尖った作品」ですからね。「知識ない人を置いてきぼりにする作品」はただの「未熟な作品」ですからね。繰り返しときますけど。
まとめ!
では、最初の「小説ではなぜ世界を描写しなければならないのか?」を総括します。
- 「世界」というのは「文章によって作られる文脈と、文章に実装されるレンダリングマシン」によって、読者の頭の中に再現される。
- 読者が没入するのは「文字・文章」ではなく「世界」である
ということです。
これを更に詳しく細かく総括してリスト化します。
- 「世界」には「解像度」がある。それは「文章に実装されたレンダリングマシン」によって決まる
- 「読者」が「世界」を描画するために自分のリソースやレンダリングマシンを使うのは「任意」であるべき。
- 読者のリソース消費を強制する作品は未熟。
- 「解像度」は高ければ良いというものではない。また、低ければ悪いものでもない(後述)
- 「読者」が「世界」を描画するために自分のリソースやレンダリングマシンを使うのは「任意」であるべき。
- 「文章に実装するレンダリングマシン」の「解像度」は、全ての読者にジャストフィットするように設計することが大切。そのためには、作者自身が「世界」に対して「超すごい解像度」を持っていなければならない。全ての読者にジャストフィットさせようと思うのならば、作者が「意図して」その「超すごい解像度」で描かれる世界や、描ける機能を「オミット(切り捨て)」していかなければならない。
- 吟味されたオミットの結果、「低い解像度」の世界になったとしても、読者はちゃんと理解するし没入もする
- 読者を侮ってはならない
- 作者がオミット(というチューニング)を怠った末に生まれるのは「高すぎる解像度」。つまり「うるさい」。
- 「高すぎる解像度」は作者が描くべきものを理解できてないときに生じがちだが、「解像度の低い」パーツと混在してシュールなことになる
- 「作者の解像度(=書き出す世界)」が「読者の解像度」より低い場合、読者のリソースを無駄に消耗する
- 繰り返しになるが、読者の読書リソースを無駄遣いする作品はNG
- 吟味されたオミットの結果、「低い解像度」の世界になったとしても、読者はちゃんと理解するし没入もする
結論として:
「作者が書きたいと思っている世界に対する、作者自身の解像度」は、「読者」よりも高くなければならない。自分がよく知らないものを書いたら即座に読者にバレる → 作品から離脱されるということになる。「十分な解像度」を持っていれば、文章に乗せるレンダリングマシンに、いろいろな読者を想定した最適なチューニングを施せる。
「読者は世界に没入する」=「作者は世界を描かなければならない:最適なレンダリングマシンの実装と共に」
……ということです。うっかり約1万文字になってしまいました。お付き合いいただきありがとうございました!
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